50両で吉原身売りの噺:「文七元結」と「もう半分」

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     10/30(金)動画配信にて、午後7時開演、会場北海道札幌市カナモトホール(札幌市民ホール)での『TVh落語・立川志らく独演会』を視聴した。新コロナ禍で密状態を避けた座席配置、寂しい感じは否めないが、客が存在する中での高座の味は格別、PC画面越しでも臨場感あり、立川志らくの落語をひさしぶりに満喫できた。当日番組は以下の通り。

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 前座志らぴー「金明竹」、大阪人客の大阪弁志らく師匠直伝のデタラメ(江戸風)大阪弁で、これでいいわけなのだ。
 志らく「親子酒」。「人生の酸いも甘いも知っている演者でなければ」出せない「味わい、渋み」に縛られず、「酒に異常なまでにこだわりを持つ男の狂喜乱舞ぶりを目一杯ディフォルメ」した展開で、立川流の真髄「人間の業」の馬鹿馬鹿しさと哀しみがよく出ていた一席。師匠喉の調子が悪いらしく、頻りに脇のコップの水を飲んでいた。ブレヒト風な「異化効果」を狙ったわけでもないだろうが、意外と演者の冷めた瞬間を見せて面白かった。
 志らく文七元結」、ホロリとさせる人情噺だが、志らくの高座では、とにかくドタバタ風のエピソードにして、最終的には感動させられた、さすがである。
 ところで50両で娘を吉原に身売りする、その50両と橋からの身投げが関係するという噺は「もう半分(五勺酒)」にもある。50両という額は、現代で強いて換算すると300〜500万円あたりのようだ。さて『清水正ドストエフスキー論全集2』(D文学研究会刊)に、ドストエフスキーの『罪と罰』の、居酒屋でラスコーリニコフに話しかける酔漢マルメラードフと、落語「もう半分」の野菜を売る棒手振りの爺さんの人生を比較対照した論考「テキストの解読と再構築」が収録されている。ブログでかつて取り上げている。

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 https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/mod/1ryou.pdf

          (日本銀行金融研究所・貨幣博物館の「お金の歴史」より拝借

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