重力/Note公演『偽造/夏目漱石』観劇


 昨日11/6(水)は、重力/Noteの公演『偽造/夏目漱石』を観劇した。戯曲:市川タロ、構成・演出:鹿島将介、第20回「BeSeTo演劇祭(日本・中国・韓国国際共同演劇祭)」の一環としての同劇団公演である。夏は、芥川龍之介の『芋粥』を原作に人間の欲望を追求した公演であったが、今回は夏目漱石諸作品の引用を基にした舞台となっている。今回演出は劇団主宰の鹿島将介さん。演出家は、上演チラシでこう述べている。
……それにしても私たちは、一体何を漱石という存在に依託してきたのだろうか。最近では教科書から外れることもあるようで、漱石が千円札であった記憶も次第に遠のいてきた。近代以降の日本人が、常に漱石の言葉を傍らに置き続けた意味について、そろそろ考えてみたいと思っている。《平凡》と感じるくらいの距離感にあるものほど、最も根深い問いを抱え込んでいるはず。出る杭を打ってきた日本においては、尚更。……


 男二人、女二人の登場人物は例によって固有名詞性をもたず、漱石の言葉(作品からの引用)を役者それぞれの(役者それぞれと状況の設定それぞれの意味で)声で、ときにはスムーズにときには途絶えがちに語って進行。リフレインが多い。「吾輩は…である」が最も印象的な台詞として繰り返される。むろん…に何を入れるかは観客次第というわけである。舞台で使われる小道具は、下駄や女物の草履と椅子のみ。どのようにして日本人が近代を受容し変容してきたのか、足が地に着いていたのか、刺激的に考えさせる。最後は女(平井光子)が、子供靴を床に置きながらゆっくり進んでいくところで暗転して幕。どうやって大人になっていったのか、なれたのか暗示して面白い終わり方ではあった。漱石作品引用の言葉のポリフォニー(polyphony)と反復のパフォーマンスに、わけもわからず快感を感じたり不可解に思ったり、このあたりの印象はこの劇団では、いつものことである。俳優立本夏山(旧・雄一郎)の相変わらずくぐもった声は、魅力的。昨年池袋での『雲。家。』では、立本が犬の鳴き声を繰り返していたが、今回はニャーの鳴き声を全員で。市川タロ戯曲ではそれほど強調されていないが、舞台ではしつこく繰り返す。この演出家は、言葉の底にある声の原初性に固執しているようである。
 台詞で驚いた一つは、「烏が一匹下りている」と語って言葉が続いて「暫くすると又一羽飛んでくる」というところ。たしかに現代人は多くは、鳥も「匹」を単位として数えて疑わない。面白かった。言葉の変化は、存在分節の変化なのである。
 日本の近代もこの舞台の展開も迷路を歩むがごとしであるが、会場となった某ビル地下のアトリエ春風舎も、はじめて降りた地下鉄小竹向原駅から辿り着くのに、二人の人に訊いてやっとという場所である(じつはこちらが地下鉄線の方向を勘違いしていただけ)のみならず、鹿島将介さんが立っていなかったらまず気がつかないだろう、洞窟の入口のようなところから廻り階段を降りるのであった。 

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のサザンカ山茶花)と柚子の実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆