単独性と偶有性


 災害お見舞い。
 阪神・淡路大震災の悲劇について、東浩紀氏との対談で述べた大澤真幸氏の発言を思い起こした。このころの二人の考察は、知的緊張感があって大いに裨益されたものである。かつてのHP記載のレビューを再録し、改めて考えてみたい。
東浩紀氏と大澤真幸氏との対談をまとめた『自由を考えるー9・11以降の現代思想』(NHKブックス)は、知的刺激に満ち、勉強になる。現代を、大澤氏は、「第三者の審級」の不在、東氏は「大きな物語」の消滅と捉えていて、「ちょっとニュアンスの違い」はあるにしても、根本的問題認識は重なっている。
 自由を抑圧する権力と管理について、規範の内面化を強制して迫る規律訓練型の古典的権力による管理は、問題性としては後退し、多様な価値観は認めながら、生活環境のセキュアリティの観点から、人びとを確率的な存在へと追い込みつつ「動物化」させている、環境管理型権力こそが、現代の問題であると二人は考えている。マクドナルドの椅子はわざと硬くしてあるそうだ。客は長い間そこに坐っていられないので、なんとなく去り、消費者の回転をよくしてあるのだという。社会全体もこのような「動物的限界」をいかに有効に活用して社会秩序を形成するのか、それがいまの社会の方向であると東氏は分析する。東氏は、確率的存在であることを、かつてのアウシュヴィッツでの「個人が数に還元される」ことへの恐怖という、古典的ヒューマニズムの立場で捉えているのではない。街角でふいと匿名的存在になれる、そういう可能性をも含めたものとして捉え、単純に否定的なものとして考えてはいない。
……監視カメラの設置なんて、むしろ商店街や住民が自発的にやっているのです。社会全体の透明性を高め、いつ誰が何をしたのかつねに確認可能な状態にしておこう、そして何か問題があったらちゃんと責任を取らせよう、という点では、国家と市民の間に対立は存在しないのです。(東)
 怖いのは、この「市民」のなかには、フーコーなんぞについて書かれた新書の愛読者もいたりすることである。
 大澤氏は、単独者であることと根源的偶有性(contingency)とは弁証法的に反転しあう関係にあるとみている。阪神・淡路大震災のとき、いつもよりたった10分早く起きたため、倒壊した家の下敷きとなるのを免れて生き残った妻が、その後、何で自分が生き残り、夫は死ななければならなかったのかと問いつづけ苦しんだというエピソードをとりあげ、
……しかも重要なことは、私こそ夫だったかもしれないという感覚は、その背景に、にもかかわらず、私は、どうしようもなくこの私である、という感覚に裏打ちされているということです。論理的には排他的に見えるこの感覚が、実際には、相乗的にたがいを強め合っているわけです。私がこの私でしかなかった、という単独性の感覚があるからこそ、同時に、でも、私こそが夫の立場でありえた、夫でありえたはずだ、という偶有性の感覚も強まるわけです。(大澤)
 匿名になれるという想像力がなければ、普遍的共感が生まれにくくなる、偶有性を奪う権力の問題として、情報管理社会の進展を考えるべきだと東氏が言うと、「共感というのは、一方では、すごく広がっていくんだけれど、他方で絶対的な限界にぶつかるということがある」として、共感できないものをつくり排除していく心理的カニズムの危うさを、大澤氏は警告する。ともども「共感」できる議論である。(2003年5/11記)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のドウダンツツジ(満天星)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆