「ロシアの闇」

 
 亀山郁夫氏と佐藤優氏の対談をまとめた『ロシア 闇と魂の国家』(文春新書)は、ドストエスキーとロシアをめぐる知的スリルに満ちた書である。〈文学青年〉現役のロシア文学研究者亀山氏と、実務能力と対ロシア外交経験をもった思想家の佐藤氏の資質と立場の相違を感じさせながら、ともに自由に見解を述べあっている。現代を考える重要な立脚点を示している。素人には、勉強になる。
佐藤『私の理解では、魂と闇は二項対立を作らないのだと思います。魂が闇を吸い込み、また闇の中に魂が遍在するというイメージを私はもっています。ロシアにとって苦難は今後も続くでしょう。そして、この苦難を積極的に引き受けることによって、いつか到来する千年王国を待ち望むというメシアニズムを、プーチン=メドヴェージェフ二重王朝(※2008年時点)のロシアは静かな形でもち続けるのだと思います。』
 これは、「ロシアの闇と魂」についての佐藤氏の最後のまとめのことばである。「ロシアの闇」を、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフにその典型を見、それをキリスト教の異端の問題であるとする亀山氏に対し、佐藤氏は、スメルジャコフが「ロシアの闇」であることには同意するが、その起源は、キリスト教の異端にあるのではなく、異教に起源をもつ問題だとし、「スメルジャコフに託された問題はロシア的問題であると同時にキリスト教世界における普遍的な問題でもある」と述べている。
 貧富の差が大きいとはいえ、現代ロシアには、軍事・文化・宗教の「魂」の復権への自覚と努力が存在し、文化への経済的サポートを惜しんでいない。このような「ロシアの魂」から現代日本は学ばなければいけない。こうした文脈で、「大審問官」としての政治家が出現することを、佐藤氏は待望している。佐藤氏のいう「大審問官」としての政治家とは、自らの内に権力という魔物を飼っている人間のことであり、権力をめぐる戦いに喜びを感じ、ときには暴力を行使してでも、人間が生き残ることができるようにするために、自らの優しさを殺すことができる、二つの阿修羅道を生きる人間であるとしている。たんなる金儲けに目的を矮小化してしまっている新自由主義現代日本においては、「スケールが小さな学校秀才みたいな」政治家しか出てこないようである。
「ロシアの魂」を理解するためのいわば鍵概念として「ケノーシス」ということばがあると、亀山氏が述べると、もともとはギリシア語の「謙譲・謙遜」の意味のこのことばは、佐藤氏によれば、「開き直り」の意に近く、いちばん近い日本語は、「まこと心」かもしれないそうで、
佐藤『欧米人が日本人を見て分からない感覚のひとつが、「靖国の精神」「神風精神」といった「まこと心」です。同時に欧米人がロシアを見て分からないのは、「ケノーシス」でしょう。ところが、ロシア人と日本人は欧米的な媒介なしで、日本人の特攻に対する感覚と、大祖国戦争での「ケノーシス」とが通じ合ってしまう。』
 亀山氏が、ロシアの「ソボールノスチ=精神的一体性」に、西欧的な「知」ではたどり着けない「ロシア性」があるのではないかと考えるのに対し、佐藤氏は、「ソボールノスチ」は「クザーヌスの全一性・ヘーゲルの人倫・高山岩男の世界史」などと基本的に同じ内容であるとし、「徹底的にロシア以外の世界との共通性を探って、それでもどうしても還元できないものをロシア性として位置付け」るいわば「否定神学」的な理解の方法を主張している。ただしそこには「命がけの飛躍」があるとしている。ロシアはむずかしい!
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100617/1276763302(「チェーホフ劇はどこで笑うのか」)

ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)

ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家に咲く、上カルミア(Kalmia:アメリシャクナゲ・ハナガサシャクナゲ)、下デンドロビューム(デンドロビウム:Dendrobium)の花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆