文藝評論家磯田光一さんのこと



 
 文藝評論家磯田光一さんは、もし存命であったならば今年傘寿を迎えているところだが、1987年56歳の若さで亡くなっている。鎌倉浄智寺澁澤龍彦の墓のすぐ近くに、磯田光一さんの墓があったと記憶している。昔鎌倉散策ついでに、二人の掃苔をしたことがあるのだ。
 とくに晩年にかけては、磯田光一さんの必ずしも熱心な読者ではなかったが、かつて一葉の葉書を送っていただいて、感激したことがある。1968年12月に上梓された『比較転向論序説』(勁草書房)について、その読んだ感想を磯田さん宛(当時葛飾区亀有)に送ったところ、2月に丁寧に認められた葉書をちょうだいしたのだった。磯田さんは、中央大学助教授で、その時代学園に吹き荒れていた全共闘運動に直面し(この後大学助教授の職を辞している)、繁忙のなかでの返信であった。葉書であることに甘えて全文を紹介しておこう。

『先日は拙著「比較転向論序説」について、貴重な御感想をいただき有難うございました。かけた労力の大きい割りに、十全な成果をあげたとはいえず、あとがきで自作への懐疑を表明せざるをえなかったのが実情です。いずれロマン主義詩人については比較文学的な方法とは別の純粋な文学的立場からまとまったものを書きたいと思っています。お手紙を頂いたまま、勤め先の学生スト、入試準備等で返事も書かず一ヵ月がすぎてしまったことをおわびします。』
 一介の書生にすぎない者にじつに誠実真摯な対応で、以降磯田さんの著作には注目した。磯田光一さんのはじめての本は、『殉教の美学』で、冬樹社から出版されている。そのとき担当の編集者が高橋正嗣氏。高橋氏は、その後独立して菁柿堂を設立、わが短篇集『十一の短篇』はそこで出していただいたものである。磯田さんは、『殉教の美学』が完成したとき、涙を流して喜んだ、と高橋さんから伺ったことがある。磯田さんについて、忘れられないひとつの印象である。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20120513/1336921652磯田光一「東京タワー寸感」)
 http://www.denkipodcast.com/crosstalk/files/cross_23_02.mp3(これは「転向」というより「変節」)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町空き地のタマサンゴ(玉珊瑚)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆