坪内祐三『靖国』(新潮社)から

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  坪内祐三さんの著書は、『靖国』(新潮社)を読んでいる。靖国神社の前身である、1869(明治2)年創建の東京招魂社の歴史を追って、なかなか面白く勉強になった。明治11年以降、兵部省によって決められた招魂社の例大祭が年4回が恒例となったことを述べて、

 ここで記念されている出来事は皆、当時にあっては、つい昨日の出来事である。近代的な出来事である。それが毎年4回、巡る四季と共に、記念され続けて行くことによって、一つの歴史性を帯びて行く。そしていつの間にか、その起源があいまいになり、神話的世界と結び付く。伝統的と思われている物の多くが、実は近代になって新たに人工的に創り出された物であると語ったのはイギリスの歴史家エリック・ホブズボウム(『創られた伝統』紀伊国屋書店1992年)であるが、ホブズボウムはまた、こうも言っている。「伝統の創出と見なされているものは、単に反復を課すことによってということかもしれないが、過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のことである」。先の引用文中に見られる一見伝統的とも思われる式次第も、実はそのころ「創出」された代物なのである。
 とは言うものの、かつて故磯田光一が『鹿鳴館の系譜』(文藝春秋1983年)のエピグラフに掲げたように、「近代の日本文化が翻訳文化であるといふ事と、僕等の喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないといふ事とは違ふのである 」(小林秀雄ゴッホの手紙』)から、私たちはその「反復」の中にしか私たちのリアルを探し求めることは出来ない。つまり先の「英霊」の母のように、その「伝統」に何の疑いも持たずにのめり込むのではなく、その「伝統」がウソであることを心の半分では知りながら、残りの半分でその「伝統」を信じ込もうとすること、そこにしか私たちのリアルは残されていない。(pp.62~63)