〈祈り〉について

 まだ初詣に行っていないが、毎年それほど律儀に出向いているわけではない。災害と病気は避けようがないと、覚悟しているだけである。神社の参詣そのことは好きである。
 さて、ウィリアム・トレヴァー短篇集『聖母の贈り物』(栩木伸明訳・国書刊行会)所収の短篇連作「マティルダイングランド」の「2、サマーハウス」の終わり近くに、〈祈り〉についての物語の主人公、わたし=少女マティルダの述懐が述べられている。父親と兄のディックが第2次世界大戦、対ドイツ戦で戦死し、残された母は秘かに店員の男と通じているのを目撃してしまう。そのときの物語りである。
……わたしはひとりで、野原をさまよった。ディックの死は父の死と同じではなかった。同じ空っぽな気持ちを味わったのにくわえて、飲み物も食べ物も二度と喉を通らないだろうという感じもそっくりだったけれど、ひとつ違っていることがあった。ディックの死は二番目の経験だったということ。わたしたちは、ディックが死んだことに慣れてしまったのである。今はじめてそれがわかった。
 わたしは泣かなかったし、祈りもしなかった。野原を歩きながら、祈るなんてばかばかしいと思った。祈るなんて、神様は大工さんだと考えているベル・フライや、神様は雑草の中にいると考えているスロートアウェイ牧師と同じくらいおばかさんなことだ。神様はぜんぜんそんなものじゃない。わたしたちのお祈りに耳を澄ませたりなんかしない。神様はもっとほかのものだ。もっと厳しくて、もっとものすごくて、もっとおそろしいものなのだ。……( p.273 )