自然と技術

 みずから雑学屋と称する。馬場正博氏によると、「自然エネルギーという言葉は英語には存在しません(少なくとも私の知る限り)。Natural energyと言っても多分通じず、Renewable energyの方が一般的です。Renewable energyの方は日本にも再生可能エネルギーという言葉がありますが、舌を噛みそうになるせいか、自然エネルギーの方が日本では広く使われているそうです」とのことである。
  http://news.livedoor.com/article/detail/5569060/?p=1(「BLOGOS」)」
 エネルギー利用に限らず、あるべき自然と技術との相関の問題は、根源的にしてかつ喫緊の課題であろう。5年前のこの季節に記載したHPの記事を再録して、改めて考察してみたい。

村上陽一郎氏は、『生命を語る視座』(NTT出版・2002年初版)において、遺伝子組み換え技術の利用に対する過剰な拒絶反応について疑義を提示している。自然界のいとなみの中に遺伝子の変化は常に生じているのであり、また、大腸菌のゲノムを使ってのヒトインシュリンの製造をすでに実行しているのであって、食料に関してこれを否定するのは一貫性を欠いている、と主張する。しかも中国の人口が13億を突破し、世界の食糧事情を逼迫させている。先日のNHKの特集番組「ブラジルアマゾンの大豆生産」でも取り上げていたが、大量の食糧需要に応じるためには、確実な収量を保証する遺伝子組み換えの大豆が必要となってきているのである。
『しかし、人間のエゴイズムとは別個に、自然界では、新しく種が生まれ、既存の種が絶滅していくのは、それこそ「自然」なことであり、そこには「善」も「悪」もない、ということは、はっきりさせておいてよいのではないでしょうか。そこに、遺伝子の組み換え(自然な)が関わっていることも確かなことです。/ところで一方、自然のなかで起こる変化のなかから、人間に都合の「良い」ものだけを選んで残すようにしてきたのが、育種学であり、「人為淘汰」ですね。今の農作物(畜産も含めて)で、その方法に拠らないものは皆無でしょう。現在のイネ、コムギ、トウモロコシ、イモ、あるいはウシ、ウマ、ヒツジなどは、すべてその方法で造り出されてきたものです。イヌやネコ、ニワトリなどもそうですね。/だとすれば、自然の手で行われる遺伝子の変異と、その変異に基づく淘汰(それは自然淘汰ばかりではなく、今述べてように人間の手で人為的に行われるものも多く含みます)は許されるが、変異を人為によって造り出すことだけは「絶対に」いけない、という論理は、それだけでは通らないように私は思っています。』
アリストテレスの『自然学』第2巻第1章には「けだし、これら〔自然的に存在するものども〕の各々はそれ自らのうちにそれの運動および停止の原理〔始動因〕をもっている。そして、その或るものは、場所的意味での運動および停止の原理であり、或るものは量の増大・減少〔成長・萎縮〕の意味でのそれであり、或るものは性質の変化の意味でのそれである。」(岩波『アリストテレス全集・3・出隆訳』)とあり、第2巻第8章には、「実のところ、技術は意図をもっていないのである。そして、もし木材のうちに造船術が内在するとしたら、それはその自然によって〔造船の技術によってと〕同じように船を造り出すであろう。だからして、技術のうちにさえなにかのために〔目的合理性〕が含まれているとすれば、むろんそれは自然のうちにも含まれているはずである。」(同書)とある。熊野純彦東大教授の『西洋哲学史・古代から中世へ』(岩波新書)は、中世哲学に頁を多く割いていて、神の存在に関する論証の形式など大いに勉強になるが、現代哲学・思想とされるものが、当たり前ながら実は現代西洋哲学・思想であることを思い知らされる名著である。哲学的思索の伝統に則って、近代・現代の問題意識と思索があることが具体的によく理解できるのである。次のところもその一例である。

『技術はたしかに、一方では自然がなしとげることはないことがらを達成する。とはいえ、そこでも「技術が自然を模倣する」のであって、逆ではない。—労働するとき、人間は自然のふるまいにしたがい、素材のかたちを変えるだけである。素材にかたちを与える労働にあって利用されるのも、自然力にほかならない。のちにマルクスがそう書いたとき、アリストテレスの発想が念頭にあったことはまちがいない。』
 地球的規模で対処しなければならない食糧問題・環境問題などを考えるとき、「無為自然」の老荘思想への回帰を訴えるだけではどうしようもないのである。(06年5/27記)

⦅写真(解像度20%)は、東京都台東区下町民家のアノマテカ(Anomatheca=姫緋扇:ヒメヒオウギ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆