自然と技術(再録)


 アリストテレスの『自然学』第2巻第1章には「けだし、これら〔自然的に存在するものども〕の各々はそれ自らのうちにそれの運動および停止の原理〔始動因〕をもっている。そして、その或るものは、場所的意味での運動および停止の原理であり、或るものは量の増大・減少〔成長・萎縮〕の意味でのそれであり、或るものは性質の変化の意味でのそれである。」(岩波『アリストテレス全集・3・出隆訳』とあり、第2巻第8章には、「実のところ、技術は意図をもっていないのである。そして、もし木材のうちに造船術が内在するとしたら、それはその自然によって〔造船の技術によってと〕同じように船を造り出すであろう。だからして、技術のうちにさえなにかのために〔目的合理性〕が含まれているとすれば、むろんそれは自然のうちにも含まれているはずである。」(同書)とある。熊野純彦東大教授の『西洋哲学史・古代から中世へ』(岩波新書)は、中世哲学に頁を多く割いていて、神の存在に関する論証の形式など大いに勉強になるが、現代哲学・思想とされるものが、当たり前ながら実は現代西洋哲学・思想であることを思い知らされる名著である。哲学的思索の伝統に則って、近代・現代の問題意識と思索があることが具体的によく理解できるのである。次のところもその一例である。
……技術はたしかに、一方では自然がなしとげることはないことがらを達成する。とはいえ、そこでも「技術が自然を模倣する」のであって、逆ではない。—労働するとき、人間は自然のふるまいにしたがい、素材のかたちを変えるだけである。素材にかたちを与える労働にあって利用されるのも、自然力にほかならない。のちにマルクスがそう書いたとき、アリストテレスの発想が念頭にあったことはまちがいない。……
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110525/1306313796(同じ記事)
 たしかにリスクの大きい原子力エネルギーの利用といえども、「自然のふるまい」を取り込んだものである。地球的規模で対処しなければならない貧困問題・環境問題・エネルギー問題などを考えるとき、「無為自然」の老荘思想への回帰を訴えるだけではどうしようもないだろう。震災後慌てて「足るを知る」生活価値観を主張している方々は、それなりのギャラや講演料や原稿料や印税やCM出演料や給料を貰っている人たちではないのだろうか。
 http://news.livedoor.com/article/detail/6002938/(「ダライ・ラマ14世」)
 http://www.newsweekjapan.jp/newsroom/2011/11/post-241.php?t=1320876779(「日本のメディア」)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の上(立ち性)プレクトランサス(Plectranthus)、下アオキの未熟の実。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆