昨年の3月7日は

 雪が降り、冬の寒さに戻ってしまった。庭の鉢のビオラも凍えている。ブログ更新の意欲が萎えるほどで、昨年のわがHP(閉鎖)3/7(日)の記事を再録し、炬燵にて時と思念の推移を想ってみた。

◆先日(2/19日・マチネー)東京両国のシアターXで、イプセン作『ロスメルスホルム』(劇団キンダースペース公演)を観劇した.この作品の舞台を観るのははじめてで、じつは原作戯曲もあわてて後日「笹部博司の演劇コレクション中の同作翻訳本(発行・メジャーリーグ)を入手読んだ次第.「日本ではイプセンへの興味が比較的少なく、イプセンというと何か過去の古臭いもの、という印象があるのだろうか」と、オスロ大学イプセン研究所所長がかつて嘆いた通りなのであった.
 演出は、原田一樹氏で、演劇評論家七字英輔氏が「日本の演出家の中でも、原田一樹ほど異色で多彩な活動を行っている者は、そうはいない」と称賛した演出家だ。
   http://www.kinder-space.com/bekko/www/harada2003/sitigihyo.html

 今回の舞台は、堅実なリアリズムの手法で演出されていて、2時間幕間なしの展開をひさしぶりに安心して観ていることができた.台詞の日本語も明確で、舞台装置もかんたんながら、ノルウェーの小さな町の名家を思わせる重厚な感じは十分感じられた.
 滝に飛び込んで亡くなったロスメルスホルメ家の妻を、献身的に看護した友人レベッカ・ヴェストが、ほんとうは、主のヨハネス・ロスメルを愛し、妻を自死に至らせるよう心理的に誘導したのであり、過去に養父と近親相姦の関係をもっていた(ただし原作本では事情もあって消去され、暗示的に窺える)ことが、妻の兄の学校長クロルとの応答で判明し、終幕、愛し合うヨハネスとレベッカは滝口への道行きとなる.登場人物のそれぞれの心の暗部が、日常的な会話の進行のなかから静かに浮かび上がってくる.まるでレベッカ覚醒剤に溺れた某清純派女優で、裏切られた思いで指弾する学校長がメディアであるような、衝撃を与えられる。古典とされる舞台のドラマはいつでも、現在のできごとなのだ。
 笹部博司翻訳本では、悲劇の観察役である家政婦のマダム・ヘルセットが削除されている.私見では、どちらでも大した効果の相違はないと思われる.
 登場人物らが心の深層の過去に絡めとられて生きている、人生の真実を描くイプセン劇の人物造型は、夏目漱石の小説にも影響を与えていることを、木村功氏が東北大学付属図書館所蔵の「漱石文庫」などにあたり論証している.なるほどもっとイプセン劇は、読まれかつ鑑賞されるべきなのだ.
   http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/papers/ibsen.htm

 人形コレクターで、人形劇にも詳しい社会学者の宮台真司氏は、「演劇の真髄を身体性に求めるのは、間違いでないもののミスリーディングだ。演劇の真髄は、感染(ミメーシス)だ」(『Shizuoka春の芸術祭2009』)と述べて、昨今の演劇がやたらに「身体性」を強調した演出に傾いていることに異議をはさんでいる.首肯できる見解である.さらに言葉への回帰を語る劇作家宮沢章夫氏の、「東京新聞」3/6紙上のインタビュー記事にも共感を覚えた.イプセン劇が、このところあちこちで上演されているのも、現代演劇の転換点を示していることなのだろう.
 宮沢氏は、演劇を変革したいと考えている.六〇年代後半以降の現代演劇は、徹底して戯曲を否定し、体の動きそのものを問題にしようと身体性を強調してきた。今では、それが当たり前となり、新しさを見いだすことはできない。そこでカギになるのが言葉への回帰だという.
「いつも言葉を問い直しています。言葉があるから、身体もある.二つは循環するもので、どちらもないがしろにはできません。」
※【宮台真司氏の「感染(ミメーシス)」について】演劇の真髄をミメーシスとするのは、プラトン的把握といえる.(ただし彼は、イデア界ならぬ異次元への通路としての人形劇鑑賞を奨めているのみ。)わが手持ちの岩波プラトン全集11『国家ほか』の「国家」(藤沢令夫訳)第3巻中の「ミメーシス」注では、1)作者が作中人物の言葉を真似ること(直接話法的再現)、2)役者・俳優が演じること、とあり、さらに3)観客・聴衆が自己を登場人物に同化する、の意味としている.「感染的模倣」はこの3)の同化にあたるだろう.宮台氏は教育論においても、この「感染的模倣」をキーワードとして論じているが、やはりプラトン的だ。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町の沈丁花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆