「上海万博」開幕




「上海万博」がいよいよ開催となった.「いよいよ」と思うのは、5年前の日本での「愛知万博」に行っているからだ.「愛知万博」は、閉会の少し前の日に入場したが、案外それほど難渋せずに気に入ったところをまわり、帰路の名古屋市内までの交通もスムーズで、よい印象をもっていた。
 とくに「トルコ館」(全体企画に参加していた文化社会学吉見俊哉東大教授も後日、たしかもっともすばらしい出来映えと評価したパビリオン)に入館し、売店で直接、お守りでもアクセサリーでもある「メドゥーサの眼」を入手できたことは、感動的であった.「インド館」では、梟の置物と木目のコサージュを買った.どこかの店の「バラのソフトクリーム」もなかなかおいしかった。各国まとまった「アフリカ館」では、夥しく多彩な仮面の展示に息を呑んだものだ.

 フランス文学者鹿島茂氏の『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)によれば、1885年5月に「パリ万博」を開催したのは、1851年の「ロンドン・第1回万博」にナポレオン三世が、嫉妬して決定したのだそうである.そのコンセプトは、サン・シモン主義を思想的柱にして「民衆福祉の向上のための産業社会実現」だった。準備は遅れたが、夏になるとすべての会場がオープンし、入場料が5分の1の日曜日には、民衆も大量に詰めかけたとのこと.主催者の意図も浸透しはじめたが、しかし
「もっとも、こうした主催者側の教育的配慮がそのまま民衆に伝わったかといえば、かならずしもそうとはいえなかった。会場で稼働中の巨大な産業機械を目にした民衆は、その使用価値に注意を向けるよりはスペクタクルとしての側面に幻惑され、万博をとてつもなく楽しい大規模なアミューズメントのイベントとして享受するようになったからだ。
               (略)
 とはいえ、こうした民衆のわけもない熱狂は、ナポレオン三世にとってはむしろ歓迎すべきものだった.万博の最中にヴィクトリア女王夫妻を招き、英仏親善の強さを世界中に印象付けようと考えていたので、どんなかたちであれ、万博が盛り上がり、民衆が帝国の栄光に酔いしれるようになったことは、クリミア戦争の膠着で批判が出始めた外交政策を立て直すまたとないチャンスと映ったのである.」

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町のハナミズキ(花水木)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆