歌舞伎座の思い出



 歌舞伎座が、いよいよ本日をもってとり壊しの運びだとのことである.このところ歌舞伎座に観劇に出向くことはなくなっていたが、昔は観に行く機会があった.少年時代に、「假名手本忠臣蔵」 五段目「山崎街道鉄砲渡しの場」「山崎街道二つ玉の場」六段目「与市兵衛内勘平切腹の場」を観たのが最初で、それ以来時おり観劇している.母とのお供のおりは1Fで、友人などとのときは3Fで鑑賞.演目は忘れたが、蔦屋重三郎など江戸の版元の研究では知られた研究者だった、亡き今田洋三氏と3Fで一緒に観たときは、アメリカの婦人と隣り合わせで、いろいろ訊かれ、たどたどしい英語で返答、悪戦苦闘したのがよい思い出となった.今田洋三氏とは、かつて都立上野高校社会科で同僚(後輩)であった.この上野高校社会科の大先輩であった利根川裕氏も、十一世(十一代)市川團十郎に関する著書(わが家で考古学的に探すが見つからず)があり、歌舞伎通で有名である.✼その後見つかった。『十一世市川團十郎』(朝日文庫
 芸術座や千葉県文化会館、わが地元の習志野文化ホールのほか、中村扇雀(当時)主宰「近松座」公演の青山劇場などでも観劇しているが、歌舞伎鑑賞のほとんどは、歌舞伎座国立劇場だ.とくに歌舞伎座で十一代と十二代(現)市川團十郎の二つの襲名興行を観たことは、誇れる観劇体験となっている.
 市川團十郎が著した『團十郎の歌舞伎案内』(PHP新書)には、先代との性格の違いがよくわかるエピソードを紹介していて面白い.
「父が台詞を覚えるときは、シーンとした、まったく音のない状態にするんです.わたくしなど多少は音楽が流れているくらいでないと逆に集中できませんが、父はとにかく静まりかえったところで覚えていた。それが強く印象に残っています.」
 わがウエブサイトでも書いたことがある。再録し、歌舞伎座への惜別としたい.

「◆十二代目市川團十郎丈が急性前骨髄球性白血病で、歌舞伎座の舞台を休演したそうである。完治を切に祈りたい。歌舞伎は、かつて高校生のころから母のお供でよく観に行ったものである。国立劇場の通し狂言を毎月のように観た年もあったと記憶する。十一代目市川團十郎の襲名興行を観劇したのは、1962年(昭和37年)4月。夜の部の方で、演目は、1「双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)」、2「襲名披露口上」、3「小袖物狂ひ・團十郎娘」、4「助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)」。もちろん、最後の「助六」が見せ場であった。助六(実は曽我五郎)を團十郎、鬚の意休(実は伊賀平内左衛門)を坂東蓑助(後の八代目三津五郎)が演じた。このとき以来、助六の敵役を務めた八代目坂東三津五郎のファンとなった。1975年(昭和50年)惜しくもフグ毒にあたって亡くなった。十二代目市川團十郎丈の襲名興行を観劇したのは、1985年(昭和60年)4月16日。このときも夜の部で、1「絵本太平記」、2「襲名披露口上」、3「助六由縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)」。よく指摘されることだが、内面に翳りを潜めた十一代目に比べると、大味な助六ではあった。それはそれでひとつの魅力であったのだろう。十一代目市川團十郎襲名興行の時の昼の部公演では、三島由紀夫の「鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)」が上演されていた。当時の筋書きによれば、三度目の舞台だったらしい。」(04年5月)

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の躑躅ツツジ)。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆