原子物理学者の姪(故人)も浦和一女の卒業生だった

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www.nishimura.com  1991年6月鶴見市の雨の坂道で、朝の通勤途上大型トラックに挟まれて亡くなった姪の大輪三恵子は、東芝の研究所勤務の主任研究員であった。埼玉県立浦和第一女子高等学校をトップクラスの成績で卒業、慶應大学理工学部・大学院に進み、そこで博士号を取った。原子物理学のメッカ、国際募集のイリノイ大学の助手として採用され、アメリカで研究生活を送った。女性の社会進出には寛容であっても当時のアジア系への差別は相当で、銀行口座もなかなか設置させてもらえなかったそうだ。そんななか努力して、原子物理学とくにレーザー法によるウラン濃縮に関しては、世界トップレベルの研究者になっていた。日本の東芝から誘いがあって、研究所の主任研究員として帰国した。見るからにやせ細って、アメリカでの凄まじい苦労を想像させ、胸が痛んだのであった。
 出身高校、浦和一女のホームページを覗くと、その教育理念は、「知性と教養、逞しさを身につけ、国際社会に貢献できるグローバルリーダーを志す」とあり、まさに先輩として(短いながらも)範を示した人生だったと言える。
 なお、同高校の総合探求授業に、弁護士の愚息が所属する西村あさひ法律事務所がサポート役として関わっていたことを知り、嬉しく思った次第。

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▼わが姪の大輪三恵子(Mieko Ohwa)が、あじさいの季節にトラックによる交通事故で亡くなって(享年32歳)から、今年で20年になる。1991(平成3)年の事故死の3年後、1994(平成6)年に慶応大学理工学部の小原實教授を刊行発起人として『白鳥の歌ー大輪三恵子博士追悼文集と論文集ー』が編まれている。

 慶応大学大学院で博士課程を終了してから、国際的な何十倍もの倍率の選抜を通ってPostodoctoral Research Associateとして、アメリカの名門イリノイ大学に赴任した。(たしかボーナスなしの月収日本円で40万円と連絡してきた記憶がある)

 http://uigelz.eecs.umich.edu/GroupMembers/group_1989.htmlミシガン大学の研究グループとともに)

 その後日本に戻り、東芝の総合研究所に入社している。事故は、川崎のその研究所への出勤時に起こったのだった。追悼文で、東芝生産技術研究所レーザー研究部の西田直人氏は、書いて下さっている。

『帰国後、大輪さんには縁があって私どもの会社に入っていただき、総合研究所の中のエネルギー研究所でレーザーウラン濃縮に関する研究に携わっていただきました。放電型レーザーのシュミレーションに関しては世界的な権威であった彼女への会社への期待は大きく、ウラン濃縮のキーポイントの一つである銅蒸気レーザーの動作の理論解析を仕事としてお任せしていました。彼女はいつも通り、この仕事にも全力を尽くして取り組んで下さり、毎日コンピュータコードを自宅へ持ち帰り、夜遅くまで検討を重ねていたようでした。コンピュータコードの書類でふくれあがった彼女の鞄は職場でのトレードマークになっていたそうです。』

 博士課程の後輩だった秋山靖裕氏は、故人の一面をよく捉えておられる。

『大輪さんはよくご自身のことを「お嬢様育ちなのよ」とおっしゃっていました。そのせいか、コンビニで買ってきた即席のうどんの作り方がわからないといって騒いだりという一面もあったようです。また、一度聞かせてくださったピアノの腕前は相当なものであったことを記憶しております。飲み会の席でも、遅くまでいらっしゃり私たちとよくお話してくださり、ほんとうに気さくで明るく、私たちのよき姉貴といった感じの方でした。』

 かつてわが結婚式の披露宴会場でショパンピアノ曲を弾いてくれたことを、懐かしく思い出す。研究していたレーザー法によるウラン濃縮について、素人のこちらにはわからないが、今回の福島第一原子力発電所の事故にあたって、ひょっとすると東芝での責任ある立場で臨んでいたのではないかと、複雑な想いもするのである。

 http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=04-05-01-06 (レーザー法によるウラン濃縮)
           (2011年4/17 記)