差別感情について

東京新聞」9/21紙上の「こちら特報部」で、猿まわし芸人村崎太郎氏のことが取り上げられている。村崎さんは、山口県光市の被差別部落の出身とのことで、出自を隠したままの文化庁の芸術祭賞受賞をピークとする絶頂から、凋落への人生を歩み、その後企画を持ち込んできたTVプロデューサーの女性との再婚を経て、みずからの出自を明らかにして今日に至っている.
 昨年一月から、四代目次郎と全国行脚を始めた.“限界集落”となった東京都内の団地、児童養護施設被爆者や水俣病患者の人たちの集まり。そんな村崎が、ハンセン病療養所を訪れる際に「猿に伝染したら?」とふと不安になった…。伝染などするはずはないのに….「なんとなく遠ざけたい」という差別する心を、自分にも見つけた./以前は遠ざけていた故郷と向き合おうと、頻繁に帰省して家族や友人と話す.それでも「あいつはブラク」と言うささやきを聞くこともある.傷ついても受け止める。差別という怪物は「隠す」ことで肥大するからだ.(同紙記事)

 わがHP(09年12/10)で、中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)について記述したことがある.この書には、通俗的理解や、「差別撤廃活動家」の〈専門的〉かつ〈先端的〉議論では汲み尽くせない考察がある。少し整理して再録しておきたい.

 中島義道氏の『差別感情の哲学』(講談社)は、差別の制度あるいは慣行にではなく、それらの是正の努力や必要を認めつつも、心の内なる差別、つまり差別感情に、考察をむけた書である。人の世からあらゆる差別を根絶しようとする〈狂信的〉な〈善意〉の運動は、社会から活力を奪い文化を貧しくさせるだろうし、そもそも無理な目標である。差別感情という人間にとってやっかいで困難な心の問題こそ、根源に存在するからである。『旧約聖書』の神に試されるアブラハムや『福音書』のイエスに限りなく近いところで、しかも自身の体験を踏まえながら、人間にとっての誠実性や悪の問題を、信仰の手前で徹底的に考究している。ここでもカントの徒としての氏の妥協のなさが貫かれていて、知らずもしくは知らないことにして、差別に加担してしまっている日常の〈普通〉さに埋没する倫理的な弛緩を痛打される。
 差別感情の感情とは、個々の体験を通じてあらわれるとしても、その感情は「恒久的」なもので個々の体験・意識を超越したものであり、差別感情の対象は「嫌うべき超越的対象」としてとらえられてしまっているのだと、サルトルの憎悪論を援用して説いている。
ユダヤ人差別や被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別の場合、彼らに嫌悪を覚えるにしても、かぎりなく個人的感情から離れていることが多い。われわれは、その差別感情を学ぶのであり、それを確固としたものに築き上げていくのである。』
 しかし「被差別部落など歴史的・文化的に背景をもつ差別」は、差別撤廃の運動の成果などもあり、時間の推移とともに緩和・消失していくだろう。中島氏をmysogynist(女嫌い)で、「赤裸々にすべてを語っているように見えて」「肝心なことが抜けている。だから信用できないのだ」(ブログ)と糾弾する作家・比較文学小谷野敦氏は、「鶴の巣や場所もあろうに穢多の家」と詠んだ正岡子規を嫌っているようだが、このような制度的歴史的差別は弱まってきているだろう。中島氏は、差別的感情を、「他人に対する否定的感情」である、不快・嫌悪・軽蔑・恐怖と、「自分に対する肯定的感情」である、誇り・自尊心・帰属意識・向上心とに一応分類し、それぞれ考察している。とくに現代における本質的差別の根幹に肉薄したところは首肯できる議論である。
『(西洋型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。』
 ここから生まれる「些細な問題」の積み重ねに、多くの人間は絶望し、ときには犯罪にまで走ることもあるかもしれない。純文学としての小説がこの問題をスルーして、「花園」での〈脱俗的〉営為で自己完結している限りでは見放されるのも仕方あるまい。中島氏は、差別してはならないとの理念を見据えて、しかし自己欺瞞的な自己肯定に収斂しない生き方として、「自己批判精神」と「繊細な精神」をもって、たえず自らの内面=心を点検することを促している。

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町で眺められた、花から飛び立った瞬間のナミアゲハ。小川匡夫氏(全日写連)撮影.⦆