前野良沢らによってオランダの医学書『ターヘルアナトミア』が翻訳(作業)されたのが、1770年代(『解体新書』刊行は1774年)であるから、245年ほど経っていることになる。オランダの人類学者・哲学者アネマリー・モル(Annemarie Mol )の『多としての身体』(水声社)が翻訳(浜田明範・田口陽子訳)刊行された。下肢動脈のアテローム性動脈硬化症の疾病をめぐってそれは、臨床医、検査技師、放射線科医、病理医らのそれぞれの「enact 」において、「ヴァージョン」として現われるのだということを、オランダのある大学病院での長期にわたるフィールドワークを基に主張している。この「enact 」&「enactment 」は、この翻訳では、「実行する」&「対象の実行」と訳されている。この用語の理解が、この本を読むうえでの肝であろう。『O-LEX』英和辞典(旺文社)にも、1)(法案を)制定する、通過させる、3)(劇・役などを)演じる、4)⦅受け身形で⦆(事件・状況などが)(繰り返し)起こる、のほかに、2)(考え・提案などを)実行する、とある。
……客体はそれが実行される実践から切り離すことは、ある種の節約になる。実行の複雑さが括弧に入れられるとき、身体は独立した存在者として確立される。それ自体だけでなりたつ実在になるのだ。一人で、自足している。これによって、診察室で言及された痛みと顕微鏡の下で可視化された肥厚した内膜を関連づけることが可能となる。それは可能だ。「診察室で言及された」と「顕微鏡の下で可視化された」を忘れて、二つの実践が一つの共通の対象を共有しているふりをするならば。そうすると、二つの実践は、指示対象として、身体の内側、より正確には下肢の動脈のなかにある一つの疾病を持つということになる。その疾病は症状として現れ、患者の訴えもその一例である。そして、最終的に顕微鏡の下に血管が置かれたときに、正体を暴かれる。
これは、よくあることだ。疾病を実行する際に実際に行われることは括弧に入れられる。動脈硬化は一つの疾病と見なされる。患者の痛みは現れた症状の一つであり、肥厚した血管壁は疾病の基礎的な実在(underlying reality )と呼ばれる。この階層的なイメージは病理学を極めて重要な分野にする。疾病の基礎的な実在を暴くからだ。実際、まさにこの理由によって、病理学は多くの分析者によって近代医学の基礎と呼ばれる。ある人はたんにそう主張する。しかし、他の人はこれを批判の根拠とみなす。生きた患者を癒すために、遺体についての知識に基づいているなんて、まったくどんな医療なんだ?……(pp67~68 )
パーソンズの『社会体系論』第10章「社会構造と動態的過程ー近代医療の事例」によれば、近代社会では、病気になることは特定の役割として儀礼化されている。この社会現象が「病人役割」。アネマリー・モルは、この本のサブテクストで、「タルコット・パーソンズの仕事は時代遅れである」としている。