マンガは固有の表現ジャンルである:内島すみれの林静一論

 内島すみれの『トートロジー考ー内島すみれマンガ評論集』(北冬書房)に、「林静一論:水平線の向こうに消えた母へ」が収められている。
 はじめに、母性を否定・喪失した女性が、〈娼婦〉となって家を出て行くという小島信夫の『抱擁家族』を分析した、江藤淳の『成熟と喪失』に触れ、「林の作品の場合、母性の否定は娼婦性には向かわず、ただの男と女という化け物の方向の先へと進んでゆく」と、内島すみれは述べている。男性優位の社会の中で、母であり、愛人(妻)であり、子どもでもあり得るような水平的矛盾を抱えているのが女性性の矛盾であり、少年はいずれ母子を守ることが課せられ、母子のしがらみとなるだろう「おじさん」になるほかはないのが、男性性の垂直的な矛盾であると、林の作品を通して考察を進める。そうとしかなりようがない関係性が破綻するとき、化け物=怪物が出現するというわけで、それがマンガの描法の特殊性を活かして巧みに表現されているのを、林静一の「赤色エレジー」に認めているのである。同棲する一郎と幸子の物語である。父が死に、一郎は残された母と妹の面倒をみなければならない立場にあり、幸子が出てきた家では、再婚した義姉夫婦が幸子の父の介護を引き受けているという状況。

 

 さらに物語が進んだ後、一郎と幸子が最後に喫茶ロッシュで会う場面で、1ページ=1コマの中にキングコングゴジラが町を破壊しているような絵が差し挟まれる。そこには、振り上げた両手に電車をつかんだキングコングが上方に、口から何かを吐くゴジラが下方に配置された垂直の構図に、「始まってる!」という(おそらく一部の)セリフが重なっている。二人の関係が今まさに終わろうとしている時「始まってる」のは、キングコングゴジラのように一郎にとってはほとんど幻想的な垂直構造である「母の父になる」ことなのだ。今の一郎にとって母の面倒を見るという現実味に欠ける逆転の親子関係は、従って破壊とも結びつくことをこの唐突なキングコングゴジラの1コマは示している。幸子との(別れという躓きをも含む)水平構造の日々から、無謀だとわかっている垂直構造の日々へ向かおうとする一郎は、だから横と縦のベクトルの間に落ち込み、挟まれてしまったかのように身体を折り曲げて「赤色エレジー」のラストを迎えざるを得ない。(pp.37〜38)