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渡名喜庸哲「ヴォルテール『リスボンの災厄についての詩』をめぐって」
▼……リスボンの壊滅で押しつぶされた多数の人々のうち何人かはきっと最大の不幸を免れました。そのような記述が感動的であり、詩の材料を供給するにもかかわらず、その不運な人々のうちたった一人でも、仮に通常の事のなりゆきしだいで長くつづいている苦悶のなかで不意に襲ってくる死を待ち望んだとした場合以上に苦しんだかどうかは確かではありません。甲斐のない手当に悩まされ、公証人と相続人たちが息をつかせてくれず、医師たちは患者を床のなかで安楽死させ、そして野蛮な司祭どもが巧みに死を味わわせる瀕死の人の最期よりも悲しい終わりがあるでしょうか。私としては、いたるところで見ていることなのですが、自然が強制して私たちを不幸にしてしまうことは、私たちがそれにつけ加えてしまう不幸にくらべてはるかに残酷ではありません。(「ヴォルテール氏への手紙」浜名優美訳『ルソー全集5』p.15 白水社)▼
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▼社会思想史のうえで、「大地震」で思い起こされるのは、アダム・スミスの『道徳感情論』の「利己心」についての議論である。「同感の原理」によって、この「利己心」との折り合いを導き、あるべき市民社会としての市場社会を構想したといえるだろう。スミスがこの著作を著す直前(1755年)「リスボン大地震」が起こり、リスボンほかの被災地は壊滅的な惨事に遭っていたのだ。知られた記述はその事実を踏まえている。
シナという大帝国が、その無数の住民のすべてとともに、とつぜん地震によってのみこまれたと想定し、そして、ヨーロッパにいる人間愛のある人で、世界のその部分にどんな種類のつながりももたなかったものが、この恐るべき災厄の報道をうけとったとき、どんな感受作用をうけるであろうかを、考察しよう。わたくしの想像では、かれはなによりもまず、あの不幸な国民の非運にたいするかれの悲哀をひじょうに強く表明するであろうし、人生の不安定、このようにして一瞬に壊滅させられうる人間のあらゆる労働のむなしさについて、多くの憂鬱な考察をするであろう。かれはまた、おそらく、もしかれが思索の人であったとすれば、この災難が、ヨーロッパの商業に、および世界全体の営業活動に、もたらすかもしれない諸効果についての、多くの推論に入っていくだろう。そして、この上品な哲学のすべてがおわったとき、これらの人道的諸感情のすべてが、ひとたびみごとに表現されてしまったとき、かれは、そういう偶発事件がなにもおこらなかったかのように、いつもとかわらぬ気楽さと平静さをもって、自分の仕事または快楽を追求するであろうし、休息をとったり気晴らしをしたりするであろう。かれ自身にふりかかりうるもっともつまらぬ災難でさえも、もっと真実の混乱をひき起こすであろう。(『道徳感情論』第3部第2篇、水田洋訳・筑摩書房)▼