「などて推しは人間(ひと)となりたまひし」あかりの聲

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『推し、燃ゆ』(河出書房新社)作者の細かい観察眼は、現代人の日常生活、伝統的な風習などについても行き届いていて、その描写のさりげない文脈上の配置がみごとなのである。
 祖母が亡くなって祖母の実家に、海外から急遽戻った単身赴任中の父、母、姉が集まる。成績不良で高校中退となったあかりの就活をめぐって、とうぜん雰囲気はよくない。

 母に言われるままソファに沈み、目の前を父が陣取る。母が脇でテーブルを片付ける。父も母も、重い空気をわざと醸し出している。しらけた気分だった。
  ひとり、横座りになった姉が、半乾きの髪をタオルで叩きながらテレビを観ている。湯上りで火照るのか耳が赤い。そっぽを向きながらも、緊張しているのだろうと思った。テレビには、耳の遠い祖母用の字幕が出ている。(p.87)

 推し=上野真幸のバンドが真幸の不祥事により解散となり、あかりは何となく電車バスを乗り継いで推しが住んでいるマンションのあたりまで行ってしまう。そのバスの終点で。

……運転手は目の前にいるあたしにではなくて、乗客のひとりも乗っていないバス全体に知らしめるように、早くしてくださいねー、と言う。バスから押し出され、ふるえて崩れそうになる脚をふんばった。お盆のときに茄子や胡瓜を支える爪楊枝が浮かんだ。(p.119) 

   こういうところが小説の面白さ。こちらも左耳の難聴で、ふだんテレビは字幕付きで視聴しているので納得できる。祖母が亡くなっても、その設定だけが保たれているところにシュールな味があるのである。
 バンドの解散が発表され、上野真幸ももうアイドルでも藝能人でもなくふつうの人間になるのだと宣言したことを受け、あかりはラストコンサートへの思いを述べる。

 昨晩から今日にかけて与えられた情報には、何ひとつ実感がなかった。いまも自分の外側だけでしか受け止められていなかった。推しがいなくなる衝撃を受け取り損ねている。
 とにかくあたしは身を削って注ぎ込むしかない、と思った。推すことはあたしの生きる手立てだった。業だった。最後のライブは今あたしが持つすべてをささげようと決めた。(p.108) 

   あかりの推しの上野真幸と真幸つながりの社会学大澤真幸氏であれば、この「推し」とは即ち、現代日本人にとっての「第三者の審級」である、と分析するかもしれない。いずれにせよ宇佐見りんの『推し、燃ゆ』は、特定の世代限定の(一見新しく見える)表層的な感覚・感情を捉えている作品のレベルではないことは、たしかであろう。