小説を読む悦び

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 石原燃の『赤い砂を蹴る』(文藝春秋)を読む。主人公の私(千夏)は、亡くなった画家で美大の教師でもあった母の家事手伝い&モデルを務めていた芽衣子さんが、故国ブラジルへの40年ぶりの帰還の旅をする、そのお供をすることになる。空路着いたサンパウロ空港から10時間にも及ぶ車酔いしやすい体質の苦手のバス旅、途中で私は母のこと、これまでの人生をエピソードごとに回顧する。母が亡くなって2ヶ月ほど後昔暮らしていたマンションの内覧会チラシをたまたま見て、芽衣子さんを誘ってそこを訪れる。案内された部屋は、住んでいた部屋の上階であったが、ベランダからの眺望はそれほど変わらなかった。

「わあ、いい眺めねえ、あれ新宿?」
 遠くに見える高層ビル群を指さして芽衣子さんが言った。
「うん、そう。雪が降った後とか、空気がきれいなときは富士山も見えるんだよ。」
 芽衣子さんが、へえ、と感心した声を出し、大きく息を吸い込む。
 私も同時に息を吸い込んだ。
「懐かしい。うちはここに木のすのこを敷いていた。一度ね、すのこの上を歩いているとき足の裏がチクっとして、足あげてみたら土踏まずに蜂がぶら下がってたことがある。取りたいけど取れないし、足も下ろせないしで、その手すりにしがみついて、お母さーん、って叫んで、大変だった。」
 思いだし笑いをする私につられて、芽衣子さんが笑う。 (pp.18~19)

 わが家の2階バルコニーでも、外壁下にアシナガバチが巣を作り、たくさんのアシナガバチが頻繁に出入りするので出られなくなったことがあった。さらにある時何匹かのヒメスズメバチが巣を襲って攻撃を仕掛け、アシナガバチの死骸が散乱、アシナガバチは一匹も生き残っていなかった。自然界の小さな戦争と殺戮に驚いたものである。そんな体験と、小説中の主人公の追憶(の追憶)を重ねじつに面白く読んだ。