扉について:キアロスタミ監督『友だちのうちはどこ?』

 かつてアッバス・キアロスタミ監督の映画作品をエッセイ(「扉について」)にとりあげたことがある。再録しておきたい。  

◆イランのアッバス・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』は、迷路に迷う少年の不安を描いて秀逸であるが、扉をめぐる物語としてあれこれ想いを巡らしても面白い。
 話の発端である学校の教室自体が、扉の開け閉めによって外の空間と遮断されたりつながったりしている。この空間の中で読み書き能力を修得したとき、はじめて扉の外へ出られるわけである。近代化の過程で学校というものが、まずは子どもの自由の剥奪のうえに成り立ってきたのだということを、新鮮な驚きとともにあらためて知らされるのである。
 主人公の少年アマハッドが、同級生ネマツァデのノートを間違えて鞄に入れて家へ持ってきてしまい、それを返すために遠いポシュテの街町まで歩いて行く。螺旋状に道の走る小高い砂地を越えたところにあるポシュテのどこに、ネマツァデの住む家があるのか、少年は聞いて廻るが見つからない。やっと一人の少年から青い扉の家の従兄弟に会えば、ネマツァデの家が教えてもらえることを聞き出し、一軒の青い扉の家を見つけるが、従兄弟の家ではなかった。砂の色になれた眼には、この錆びかかったような青色の扉も美しい印象を与え、ある懐かしさも感じさせるのだ。 
 ネマツァデの父がアハマッドの町の方へ行ったとの情報で、少年は自分の町へ戻ると、その男が「透き間風も入らない、ずうっと長もちする鉄の扉に替えないか」と一人の老人に勧めていた。彼は扉を作る職人のようだった。商談成立せずろばに乗って戻る男の後を追って、アハマッドは再びポシュテに来てしまう。ネマツァデは、今度宿題をノートに書かないと、退学させると先生から言われているのだ。アハマッドも必死であった。
 この男の息子ネマツァデは、別人であった。その子からもう一人のネマツァデの家をきき、探すが辿り着けない。声をかけてくれた老人と迷路の階段の道を歩きまわり、結局はメビウスの輪を辿るように前のネマツァデの家に来てしまう。
 この老人は、旧いタイプの扉を作る職人であった。アハマッドの父のことも知っているというから、腕利きの職人であったのだろう。「鉄の扉はほぼ永久にもつというが、人間はそんなに永く生きられると思っとるんだろうか?」と老人は嘆息しながら、アハマッドに語る。これは、西洋的近代化に安易に扉を開けることに対して異義申し立てをする、イスラム保守派にもどこかで通じていく声であろう。

 二つの町を遮断しながら同時につなげている小高い砂地は、ジンメルの考える橋にあたろう。

……分割状態と結合との連関において橋が後者に力点をおき、しかも橋によって具体的に測定できるものとなる両岸の水平距離をも同時に克服しているとすれば、扉は、分割と結合とは全く同一の活動の両側面に過ぎないことを、いっそう明確なかたちで表現している。はじめて小屋を建てた人間は、はじめて道を作った人間と同様、自然には求められない人間固有の能力を示したのであって、彼は連続する無限の空間から一区画を切りとり、これをひとつの意味にしたがって或る特殊な統一体へと形成したのである。すなわち空間の一部分はそれ自身の内部で統一的に結合されるとともに、それ以外の世界全体から切り離されたのである。しかし扉は、人間のいる空間とその外側にあるいっさいのものとのあいだのいわば関節をなすことによって、ほかならぬこの内部と外部との分割を廃棄る。扉は開くこともできるからこそ、閉ざされた扉が与える外部との孤絶感は、のっぺりしたたんなる壁が与えるそれよりも深い。(ジンメル「橋と扉」著作集12・白水社) 
 日本においてのいまの問題は、扉が扉としての機能を失いつつあることだろう。意志に反して、扉の開閉がなされ始めている。インターネットの普及は、いやおうもなく家庭や国家の扉をも、不意をつくように自由に開けるであろう。
 むろんこの趨勢を悲観的にのみ見ているわけではない。安藤忠雄氏の「住吉の長屋」のような、内と外とがトポロジカルに反転する建築空間の発想が日常的空間感覚として浸透し、新たな想像力を生むことも可能であろう。いわゆるグローバル化がこれまでの共同体的束縛から解放された、広い視野の人間を作り出す可能性を認めてもよい。
 倫理観を支える伝統や土壌をめぐる社会学的な問題が、気にかかるのである。「中国の公は皇帝や国家の上に更に普遍的・原理的な天の公をいただいている」のに対し、「日本のおおやけ=公が最高位を天皇や国家とし、そこをおおやけ=公の領域の極限とする」(溝口雄三『公私』)。伝統が、外的環境やメディアの変化で短期間に克服されるとは考えられない。
 近代日本史における六十年周期説を支持する、社会学大澤真幸氏によれば(97年8月9日講演)、今日もてはやされているマルチカルチャリズムも、戦前の「世界史の哲学」の議論と対応するそうである。超国家主義がすぐその後に誕生したことを思えば、扉をいたずらに開けっ放しにしておくことの危うさに、注意を払うべきであろう。(1998年個人メディア「インテルメッツォ」発表・2008年8月改稿)

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 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20141011/1413021131(「アッバス・キアロスタミ監督『Like Someone in Love』:2014年10/11 」)