有島武郎とイプセン

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 荒木優太氏の『有島武郎』(岩波新書)第五章まで読了。第五章「生きにくい女たちの群像」では、現代フェミニズムや現代哲学の可能世界論なども踏まえつつ、有島作品の本丸『或る女』に迫るのである。この章全体の論旨は後にして、興味をもったのは、有島武郎が愛した文学者の一人が劇作家ヘンリック・イプセンだったというところ。『ヘッダ・ガブラー』のヘッダは「有島の愛した造形で、評論「二つの道」では煩悩のなかで身動きのとれないハムレットと対比して自分の心のままに行動するヘッダ・ガブラーを大いなる人間類型の一つとして理解しています。葉子の影にヘッダを読む論者も少なくありません」とのことである。
「いわば家出をしなかったノラこそがエリーダなのです」との「一見幸福な家庭生活を送っているエリーダ」を主役とする、イプセンの『海の夫人』について『或る女』と対比、論及する。エリーダの夫は医師、葉子の場合は父親が医師、エリーダは神経過敏症(それを癒すために毎日海で泳ぐ習慣)に対して、葉子はヒステリー症。似ているがどうか。

 けれども、決定的に異なるのは、エリーダが自分の意志と責任で二者択一の伴侶を選んだのに対して、葉子はいわば二者両得、まだ使える可能性をストックする、ずる賢さがありました。木部(✼元夫)への未練がましい言葉もその一つでしょう。それがために、倉地から「後釜に木村(✼若い頃葉子と結婚の約束をした男)を何時でもなほせるやうに喰い残しをしとるんだな」という疑念を起こさせもするのです。二重張りは許さない、というわけです。(p.150)

 イプセン作品の舞台は、『人形の家』はむろん、『ヘッダ・ガブラー』も『海の夫人』も観ている。観劇記を再掲しておこう。その時は、不覚にも有島武郎の『或る女』を思い浮かべることはなかった。

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