イプセン『海の夫人(Fruen fra havet)』観劇


 昨日は、新国立劇場・小劇場でのマチネー公演、ヘンリック・イプセン作、アンネ・ランデ・ペータス&長島確翻訳、宮田慶子演出の『海の夫人(Fruen fra havet)』を観劇。旅帰りの翌日ということで、千葉県から東京初台まで出かけるのはしんどかったが、面白い舞台だったので、総武線快速船橋駅までは坐れなかったのはともかく、帰宅後の疲労感はそれほどではなかった。


 舞台が中央に設けられ、それを四方から観るというステージと座席の配置は、かつて観たデヴィッド・ルヴォー演出の『人形の家』と同じ。違和感はなかったが、それぞれ多弁な登場人物の台詞が静かに語られること多く、この季節いつもやや難聴気味のことちらとしては、聴き取りにくいところもあった。シェイクスピア演劇の台詞のように、相手に語りかけつつ観客に声を届ける朗々とした台詞回しの演劇ではないので、とうぜんではある。

 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130529/1369813403(「女優宮沢りえの『人形の家』2013年5/29」)
 物語の舞台はノルウェー北部のフィヨルドに面したある小さな町。フィヨルド(Fjord)とは、公演パンフレットによれば、「その昔、スカンディナビア半島全体を覆っていた氷河によって、大地が削られてできたもので、その深く削られた後に海水が入ってできた入江」である。季節は夏、船がフィヨルドに入って来る。外へ開かれているのだ。しかし冬になれば、閉ざされて船舶の往来はなくなってしまう。まさに舞台のフィヨルドは、ひとの心の象徴ともなっている。他者が侵入してくることもあるが、閉ざしてしまうこともある。それぞれが、ほんとうの港に達することはじつは容易ではないのである。
 医師ヴァンゲル(村田雄浩)の亡くなった先妻の誕生日を祝うということで、画家で音楽家で観光案内人のバレステッド(横堀悦夫)が医師の邸宅の前庭に、いくつも並べられた旗を揚げるところから始まるが、ノルウェー学士院会員である毛利三彌成城大学名誉教授は、宮田慶子さんとの対談で「『小さなエイヨルフ』にも出てきますし、ノルウェー人は旗が好きなんです」と語っている。なるほど、「地方に徹すると逆に国際的になる、その典型ですね。今はグローバリズムが流行りですが、むしろローカルに徹することによって世界に広がっていくこともある」。
 先妻が亡くなり、ヴァンゲルは灯台守の娘エリーダ(麻実れい)と再婚した。エリーダには婚約の私的儀式を交わしていた船乗りの恋人がいたのだが、その航海中、経済的な理由からヴァンゲルの求婚を受け入れたのであった。つまりこの結婚は、〈取引き〉なのであった。二人の間に生まれたばかりの息子が急死し、エリーダは裏切りの思いとともに空虚を耐えて暮らしてきた。ある日英国船が湾に現れ、一人の船乗り(眞島秀和)がエリーダのところに来た。かつての恋人であった。「俺とともにここを去るか、残るか、明日俺が来るまでに自分の責任で選択しろ」と告げた。さて、ここがこの演劇の主題に関わる重要なところ。翌日船乗りが訪れ、エリーダは海に帰る人魚=海の夫人のように、男の方に惹かれていくが、ヴァンゲルが「取引きは終わりにしよう。エリーダあなたはもはや自由に決められる」と苦悩の果ての決断をすれば、エリーダは解放され、その自由となったみずからの責任において、ヴァンゲルとともにいままでの暮らしに留まることを選ぶのであった。サルトルボーヴォワール風な結末となった。
 先妻との間には二人の娘があって、長女ボレッテ(太田緑ロランス)は、恩師である教師アーンホルムの大学進学への経済的援助を条件に、彼のプロポーズを受け入れてしまう。〈取引き〉の再生産が実現しているのだ。受け入れられると、アーンホルムはもう、ボレッテの腰に手を回したりして、この〈取引き〉の内実を暗示させる。このあたり巧みである。次女ヒルデ(山崎薫)は、反発しているようで真実は後妻であるエリーダへの思慕の念を隠していたのであった。エリーダを船乗りから隔離するため、父親ヴァンゲルが夫婦二人だけで引っ越しすると告げていたが、どこにも行かずここに留まることになったと知って、母エリーダと抱擁する場面は感動的であった。それまでのヒルデの身軽な動きが、少女の悲しみと寂しさの現われだったことを知らされる。山崎薫は、よい。
 彫刻家志望の青年リングストラン(橋本淳)も、ボレッテに「自分の創造活動を支えてほしい。そうすればアーティストの妻として充実した人生が送れる」と自分勝手なことばで言い寄るが相手にされない。なぜ相手にされないのかについてもわかっていない。毛利三彌氏によれば、前掲対談で「女性の味方みたいな顔をしているけれど、イプセンは女性を恐れていたんじゃないかと思います。奥さんのことも恐かったようですし。恐いというよりは、不安という方がいいかもしれない。近代という特殊な状況における人間の不安が、イプセン作品の全体のテーマだと私は考えているんですが、近代社会の男にとって、不安の一番のもとは女性だったのではないか」とのことである。
 バレステッドが舞台に出てくるとリフレインのようにいう台詞、「慣れるというか、馴染むというか、順応するというか、そうなるんだ」ということばが印象深く嵌め込まれている。住んでいる風土にも、人間関係にも慣れるものだ、との苦い教訓なのであろうか。いやそうはならない、そこが困難なところなのだとの悲鳴なのか、どちらにもとれることばとして残った。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110307/1299484461(「昨年の3月7日は・イプセン作『ロスメルスホルム』(劇団キンダースペース公演)観劇:2011年3/7」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20150211/1423637341(「重力/Noteの『人形の家』観劇:2015年2/11」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20121229/1356784878(「ルパージュの魔術・美人女優の裸:2012年12/29」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130312/1363075447(「半世紀ぶりの『長い墓標の列』観劇:2013年3/12」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20140223/1393146234(「ひさしぶりにサルトル作品観劇:2014年2/23」)


⦅写真は、東京台東区下町の、上ドクダミ、下ダイアンサス(ナデシコ) 。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆