永田和宏『現代秀歌』(岩波新書)を読む

 永田和宏『現代秀歌』(岩波新書)を読んだ。現代歌人100人の100首を選び、作品に即して解説と著者自身の感慨を付けて展開しているので、一気に読了というわけにはいかない。とくに太字で掲げられた歌については何度も読み直しながら進めるので、新書とはいえ読み終えるのに時間がかかった。今後も随時この本を手にすることになるだろう。2010年著者のご令室でもあった歌人河野裕子さんが、乳がんで亡くなっている。そのこともあって、第1章「恋・愛」のところに「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか」「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」を紹介し、第10章「病と死」につづく「おわりに」で、著者の「一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ」の歌ほか、そして河野裕子の病床で詠んだ歌をそれぞれ数首紹介している。まるで私小説のような仕掛けを設けていて、ただの現代短歌概説書ではない。「いい加減にしろ」との感想を抱く読者も出るだろうが、次のところはやはり感動させられる。
……死の前日、河野裕子の口を漏れた最後の歌は、次の一首であった。この一首を私が自分の手で書き写せたことを、誇りに思うのである。
 手をのべてあなたとあなたに触れたときに息が足りないこの世の息が  河野裕子『蝉声』……(pp.254)
 個々の作品では、まず第1章「恋・愛」の春日井建の歌と解説が面白かった。昔歌集を愛読したからである。

 蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし                       春日井建『未青年』
……まだ幼く、不器用な愛の歌と言えようか。愛を交わしたあと、ベッドに横たわっている裸身の汗を拭いてやる。蒸しタオルという具体が奇妙なエロスを演出しているのだろう。しかし、そのエロスはどこか無垢な清潔さに満ちている。「われへの愛の棲む胸かたし」と詠われる少女の胸もまだ幼く、かたいのである。愛を知りはじめた、初めの時期にしかできない愛の歌だ。……(pp.18)
「太陽が欲しくて父を怒らせし日よりむなしきものばかり恋ふ」などの危うい愛(同性愛への傾斜)も紹介している。三島由起夫は歌集『未青年』について、「火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり」を「その怖ろしい、つきつめた魂の抒情において、集中随一の名歌である」と評している(深夜叢書社版『行け帰ることなく/未青年』書評)。 
 第4章「家族・友人」で紹介の、小池光の「ふるさとに母を叱りてゐたりけり極彩あはれ故郷の庭」(『廃駅』)は、この3月に百寿を迎えるわが老母を想い、「故郷も、そこにひとり暮らす母も、たまにしか帰れない自分も、すべて悲しい。しかし、この歌の悲しさは、内容の悲しさであるとともに、張りつめた歌の律から来る悲しさでもあろう」との著者の指摘に共感するのである。
 著者の説く短歌鑑賞の心得は首肯できる。ここだけでも勉強になったことである。
……歌は意味が通っていることも大切だが、意味だけで終ってしまっては、詩としての味わいも、奥行きも、幅もすべて失われてしまうものだ。意味は考えるが、大切なのは、意味がわかったあと、どれだけその歌が、作者と読者のあいだの懸隔の深さをあらわにしてくれるか、その間に横たわる謎を提供してくれるか、つまり作者が述べた意味以上に、どれだけ読者がその一首に参加できるかが、本当は歌を味わい、鑑賞するためにはもっとも大切なことなのである。……(pp.159)