横山大観の「紅葉」には圧倒された記憶がある

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 生誕150年を記念して東京国立近代美術館で「横山大観展」が催されているとのこと。鑑賞に出かける予定はない。昔(1993年春)千葉そごう美術館で「足立美術館 横山大観展」を鑑賞したことがある。そのときの図録はいまのところ見つからないが、大作「紅葉」に圧倒された記憶だけは鮮明である。栗田勇氏の『美の探訪』(クレオ・1991年初版)での作品評が、この絵画について論じて余すところがないかと。

 気をつけて、日本人の伝統をみなおすと、万葉集では、黄葉とかいてもみじと読ませ、また〈もみずる〉という言い方もある。そして紅葉をうたった和歌のほとんどが、激しい恋の歌なのである。また、能に、紅葉狩りというのがあるが、これも、山で貴公子が、鬼女の乱舞におそわれるという、激しく妖艶でダイナミックなものなのである。私は、そこに秘められた、もうひとつの日本の顔をみた。そして、それを「紅葉の美学」と名づけた。
 明治をすぎてから、このように激しい紅葉について語った人は少ない。だが横山大観の六曲一双の大屏風は、まさに紅葉の激しさを見事にとらえた珍しい傑作である。ここには、山並みはない。二本の紅葉の老木が、しかし、驚くべき精気で、血をしたたらせている。豪華で重厚な趣さえある。もみずる紅葉は、画面からはみ出して、世界をぬりこめてゆくかの勢いである。
 下には清流が、秋の激しい陽光に、銀のきらめきをみせている。ここには、悩ましげなもの、弱々しいものは一切ない。絢爛豪華なもみじが、いや、近づく冬を迎えて、かえって燃えさかる生あるものの命の燃焼が見事に描かれている。ここには、私が、かつて、東北への旅でみた、もみずる造花の生命が脈うっている。(p.109)