仮面と『山の音』

 本日の『東京新聞』「TOKYO発」紙面に、東京北区西ヶ原の洋菓子店「カド(CADOT)」のことが紹介されていた。「初代店主の高田壮一郎さんは海外渡航にまだ制限のあった1956(昭和31)年、パリへ渡って洋菓子作りの修業に励んだ。父親で洋画家の力蔵さんも戦前、パリに滞在した。親子2代でかの地とは縁が深い」とある。
 かつては西ヶ原本店のほかに、巣鴨店、小石川店(地下鉄茗荷谷駅近く)があり、巣鴨店はだいぶ前に、小石川店は昨年閉店になっているそうである。巣鴨店は、かつて勤務していた職場に近いところにあったので寄ったことがある。新聞記事にもあるようにフルーツのサヴァランが有名であるが、当時甘党の同僚の奨めでブタちゃんケーキを買った。これが甘すぎて以後この店で求めることはなかった。しかし川端康成がここ(本店)の菓子を愛好していたとのことで、直筆(巣鴨店ではそのコピー)の推薦原稿が額に飾られ掲げられてあったのを、よく記憶している。
 http://www.sugamomap.com/contents/cadot.html(「巣鴨周辺MAP:CADOT」)

 川端康成の『山の音』に触れつつ仮面について書いた、1996年歳旦のエッセイ「仮面について・Ⅱ」(2008年8月改稿)を記載しておきたい。
(仮面作家正法地美子さまよりいただいた年賀状から)

 1996年10月の、ポーラ文化研究所公開シンポジウムでの、狂言師野村万之丞の、いろいろな仮面を使った「仮面がつくるしぐさ、表情、装い方」の実演と話は面白かった。
「これがいちばん、仮面をつけるのによいもので」と言って、強盗かレイプ犯がするような感じで頭にパンティストッキングをすっぽりかぶって、それぞれの仮面の人物になりきりしぐさを演じた。仮面をかぶる前に、必ず面にむかって軽く会釈している。
「仮面には命があると見るからなのです」という趣旨の説明があった。なるほど演ずる人の立場なのだと感動した。前に、芝の増上寺で韓国の鳳山仮面劇が上演された。終了後、本堂の前の庭で使用された仮面が焚き火の中に投げ込まれ、燃やされたことを思い出した。
 私などは常にオブジェとして対してしまっている。万之丞師が一礼してかぶると、アルレッキーノの仮面は、見事に師を稀代の悪者の召使に変貌させてしまうのである。近くで見ていて、なにか悪戯されそうで怖いものを感じたくらい迫力があった。帰ってから私の机の真ん前の壁にぶら下がっているアルレッキーノの仮面を見直したが、さほど怖くない。ヴェネツィアの一流の仮面作者の手になるものであるが、やはり、だれかにかぶられてこその仮面なのだろうか。 
 独特のエロティシズムの写真家豊浦正明の作品をよく紹介する、代官山の「ARTS RUSH」で春に正法地美子の仮面新作展が開かれた。
 正法地さんも、「仮面というものはかぶった感じが人によって全然違ってくるんですよ」と言っておられた。
「横浜ボートシアター」の遠藤啄郎は「たしかにエアロビクスとかスポーツとか盛んで、以前にくらべ体を動かすことが多くなっていますし、人前でなにかやることも以前にくらべ平気になってきた。しかし現われてきたものが、かつての若い人たちが見せてくれたエネルギーを感じさせてくれない」と嘆き「演じる人の内発性と重なっていないものはリアリティを持っていない」つまり、「仮面と顔の距離がなくなってしまっているように見える。闇がないように見えてしまう」と最近の若者の、演技・表現について述べている(ポーラセミナーズ『演じる』1)。


 菊子は慈童の面を顔にあてた。
 「この紐をうしろで結ぶんですの?」
 面の目の奥から、菊子の瞳が信吾を見つめているにちがいない。 
 「動かさなくちゃ、表情が出ないよ。」
 これを買って帰った日、信吾は茜色の可憐な唇に、危うく接吻しかかって、天の邪恋というようなときめきを感じたものだ。
 「埋木なれども、心の花のまだあれば……。」
  そんな言葉も謡にあったようだ。
 艶めかしい少年の面をつけた顔を、菊子がいろいろに動かすのを信吾は見ていられなかった。
 菊子は顔が小さいので、あごのさきもほとんど面にかくれていが、その見えるか見えないかのあごからのどへ、涙が流れて伝わった。涙は二筋になり、三筋になり、流れつづけた。(「川端康成『山の音』岩波文庫」) 
                                     
 義父への禁断の恋心をもつ菊子の心の闇が、能面の慈童によって露にされたのである。敗戦による喪失感を抱いて生きる信吾が、ここで菊子に能面をかぶせたのはどうしてか?かぶった面の奥に、彼女の本心を見たかったのだろうか?
 流れてきた涙は、「仮面と顔の間の距離」を示しているともいえるし、彼女の素顔と本心との間の距離を物語っているといってもいいだろう。


「菊子は修一と別れるつもりがあるのか。」 
 菊子は真剣な顔になって、
「もし別れましたら、お父さまにどんなお世話でもさせていただけると思いの。」
「それは菊子の不幸だ。」
「いいえ。よろこんですることに、不幸はありませんわ。」
 初めて菊子の情熱の表現であるかのようで、信吾ははっとした。危険を感じた。(「同文庫」)


 この危険な情熱の表現を能面をかぶる場面で描いたのが、『山の音』を原作にした映画『眠れる美女』(石堂淑男脚本・横山博人監督)である。
 慈童をかぶった菊子(大西結花)が突然面を投げ捨て、信吾に抱きつき覆いかぶさるようにして接吻する。原作の菊子が秋の露とすれば、大西結花の菊子は、横山大観の紅葉だろう。
 紅葉が象徴するものとは、爽やかでたおやかに見えた菊子の体に潜在する、「危険な情熱」であり、男性的な〈能動性〉である。おそらく、菊子の舌はあたかも男根のように、信吾の口腔に辷り込んだのではあるまいか。この瞬間においては、菊子が男であり、信吾は犯される女にほかならない。
 仮面が危険な情熱の表現を誘発したことを描いている点で、また男たちは、現代女性にひたすら〈自然性〉=母性をのみ、祈りのように期待してはならないことを暗示している点でこの映画の描写は、なかなか優れているといえる。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20121024/1351065727(「菊子は菊の季節に」)