サルトル没後35年

  J.P.サルトルが亡くなってから35年になるそうである(1980年4/15没)。没後10年を記念して上梓された『いま、サルトル』(思潮社・1991年7月刊)をわが書庫から引っ張り出して、多くの論稿のなかから数編を読んでみた。改めて知ることも少なくなかったが、没後35年であれば、いよいよ次の指摘するところは誰も非を唱えまい。篠沢秀夫氏の「死せるサルトルは誰を走らせるか」と題された論稿にある。
……さらに言えば、書かれてそこにあるテクストに関しても、社会的発言に係る部分は発言者の死とともに流砂と化して、時が洗い流して行くのである。なおも一歩進めれば、敗戦と戦後の冷戦という「状況」の中で書かれた多くの文学作品の形のテクストも、理想としての社会主義と国際政治の枠組みとしての冷戦とが消失しつつある今日では、あまりにもかつての「状況」の刻印が目立ち、風化する「状況」の中の資料と化して行くのかも知れぬ。
 百年後の文学史サルトルについて真剣に問題にするテクストは、戦前に発表された『嘔吐』となるのではないか。
『ラ・ノゼ』は、『嘔吐』の訳題で広く知られたが、誰も一度も吐いてはいないし、言葉の意味からしても『吐き気』である。……(同書p.120)
 それはそれとして、学問としての文学研究者には自明のことであろうが、語り手もしくは主人公を媒介とする作者と読者との関係をめぐるサルトルの文学論について論評した、久米博氏の論稿「書くことと読むことのあいだ」は面白かった。サルトルが、モーリヤックの小説作品で、主人公の三人称による客観描写のなかに「用心深い絶望の女」という作者の「批判」が下され、それに応じて読者もそのように下すのは、作者の越権行為であるとしている点などを批判的に検討している。サルトルは、「作中人物のもつ自由は、また読者の自由でもある。作中人物の自由を尊重するなら、作者は人物の内心にまで入りこんで描くようなことをするべきではない」と主張しているのだ。
……また「用心深い絶望の女」というように作者が人物の内部に入りこんだり、批判したりする権利も語り手の設定の仕方、また語り手に全知の視点を与えるかの問題に帰する。たとえばF・K・シュタンツェルは視点という角度から、物語状況を次の三つに分類する。第一は、語り手が特権的な視点をおしつける「語り手支配の物語状況」、第二は、作中の特定の人物の視点から他の人物を見る「人物支配の物語状況」、第三は、一人称で語る人物と一体化し、他の人物と同じ世界に生きる「私支配の物語状況」である。モーリヤックの『夜の終り』は、さしずめ第一の物語状況に属しよう。サルトルは、「小説家は人物の目撃者となるか、または共犯者となるかはできようが、けっして同時にその両者にはなれない」のは小説の掟だと言うが、はたしてそうだろうか。むしろサルトルのほうが狭い固定観念にとらわれているのではないか。……(同書p.60)

 

⦅写真は、東京台東区下町民家の石楠花(シャクナゲ)のつぼみと開花。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆