呉座勇一『戦争の日本中世史』を読む(Ⅳ)

 いよいよ終章「“戦後レジーム„の終わり」である。「足利義満専制君主だった!」との捉え方も少なくないが、例えば、謀反の構えを見せた鎌倉公方足利満兼の罪を不問に付したり、義満の安堵した周防・長門守護職大内弘茂の兄盛見(もりはる)は、これに反発挙兵しているが、討伐は成功せず、義満は結局盛見の家督相続を認めるなど、事実は多くの妥協を余儀なくされたのである。
……この時期になると、全国の守護は京都に常駐することを義務づけられ、守護は本国の経営を守護代に委任した。地方勢力のまとめ役である守護たちを将軍のお膝元=京都に集めることで、守護の地方軍閥化を防止し、幕府の求心力を高めたのである。これを「守護在京制」というが、これには例外があった。奥羽は守護不設置であり、関東と九州の守護は上洛せずに本国に居続けたのである(これを「在国」という)。
 これらの在国勢力は表面上、幕府に服していたが、必ずしも幕府の命令に従順ではなかった。だが、遠征軍の派遣に困難を感じていた義満は、「遠国(おんごく)」の諸勢力の半独立的な性格を容認することで、「平和」を達成した。近年の学界では、これを「室町の平和」と呼んでいる。……(p.274)
 足利義満の後を継いだ足利義持は、北山第(※政庁群)を解体し、日明貿易の中止など、反義満的政策を実行しているが、「遠国放任策」という義満の基本的政治方針を継承している。例えば、鎌倉公方足利持氏の反抗に対しても本格的討伐軍は編成せず、持氏の謝罪を受け入れている。
 将軍の威令は全国の武士に行き届くとのタテマエだけは守るという統治体制が、足利義満が築いた「戦後レジーム」であった。足利義持の後を継いだ弟の足利義教は、この「戦後レジーム」を現実のものにしようとしたのである。「戦後レジーム」の護持を主張する畠山満家が亡くなる前後から、義教政権の武断的性格が顕著になってきた。鎌倉公方足利持氏は、反幕府的行動を繰り返し、これを諌めた関東管領の上杉憲実を討とうとし、足利義教の命により、上杉憲実軍によって攻撃され自害した。関東と大和の平定を達成した足利義教は、「難敵を滅ぼした高揚感」がその政権運営から慎重さ、細心さを奪っていった。独裁的性格を強め、諸大名を無視した政治を行うようになるのである。しかし足利義教は、赤松満祐・教康親子によって謀殺されてしまった。病死した義勝を経て、(足利義成のちに)足利義政が将軍となった。将軍就任当初の義政は、内部抗争によって失われた幕府の威信を回復すべく、積極的に政務に関わった。
 足利義政は、「京都しか視野に入っておらず、山名宗全の脅威を軽視した」判断ミスによって、応仁の乱という大乱を招いてしまったのである。
 応仁の乱の特徴として、足軽の横行がある。諸大名に雇われて京都での市街戦で活躍したが、実際に給金をもらえるのは足軽大将のみであるから、足軽たちは略奪によって生活を支えるほかはなかったのである。諸大名の「略奪許可」のエサで彼らは軍事動員されたわけである。足軽たちが登場した背景には、土一揆の頻発がある。京都に出て富を奪おうとする飢餓難民の動きを組織したものが「土一揆」であり、強盗や悪党が日常的に出没するようになり、放火や略奪が相次いだ。このような京都の治安状況が足軽の誕生をもたらしたのである。
 また室町時代の村は、明確な指揮系統を有した軍事集団としての顔を持っていた。隣接する村との合戦のために武装する必要があったのであり、土地の境界争いや山の木・川の水の利用権をめぐって争いが多発し、武力衝突に発展することも珍しくなかった。応仁の乱が始まると、東軍も西軍も、京都近郊の村々を味方につけようと競って働きかけた。戦功として、半済(はんぜい)=年貢の半分免除を報酬としたが、村はあくまで自分たちの生活の拠点の防衛に全力を注いだのである。だから黒澤明監督の『七人の侍』は史実と異なっているということになる。なるほど、面白い。
 著者は、最後に緊張感を欠いた戦後平和主義の危うさについて警鐘を鳴らしている。
……本当に平和を創造・維持しようと思うのなら、現実主義に立脚すべきである。善隣友好やら友愛やらといった美辞麗句を並べるだけでは「ほどほどの平和」も保てない。畠山満家は「無為(ぶい)」をスローガンとする平和主義者だったが、諸大名の勢力均衡を維持するためには富樫満成や赤松持貞といった義持側近を殺害することすらためらわない冷酷な一面を有していた。……(p.324)
ハト派」こそがリアリズムに徹するべきである、としている。 

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

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