浄瑠璃国会における太郎冠者

 
 佐藤健志(けんじ)氏の評論集『未来喪失』(東洋経済新報社)に、「国会浄瑠璃論」と題された面白い評論がある。日本の国会中継が退屈なのは、国会審議自体がつまらないからであるとし、そこに緊迫した実のある対話的論議が生まれていず、あらかじめ用意された質疑と答弁、そして儀式化された審議と採決の過程のみがあると述べる。日本演劇の創作劇の退屈さと共通するところがあると指摘。「創作劇の場合、これは西洋的な台詞劇の形式を一応取りながらも、論理性を欠いた感傷的な台詞のやりとりに終始する芝居か、登場人物の心の動きがさっぱり分からないまま、いたずらに観念的な議論を繰り広げるだけの芝居として表れた」が、日本の国会の場合は、「表面的には論理の積み重ねによる意思決定を行っているように見せつつ、伝統的な意思決定プロセスをひそかに導入する形で表れた」としている。
……「伝統的な意思決定プロセスの導入」とは、たんに議会の意思決定が、舞台裏の「国対政治」によって実質的に行われることを指すものではない。表面的には西洋台詞劇よろしく、主張をぶつけあうことで展開しているかに見える国会審議自体が、その議事運営方法によって、日本の伝統演劇に驚くほど似通ったものになっているのである。
 事前に用意されている(しかもたいていの場合は代筆された)文章を相互に読み上げるだけの代表質問は、官僚やブレーンという「大夫」を背景にした浄瑠璃でなくて何であろう。発言のたびに委員長が発言者の名を呼ぶ慣行も、それぞれの発言の自立性を弱め、あたかも委員長が全ての発言を行っているかのような印象を与える点で、大夫が一人であらゆる登場人物の台詞を語る浄瑠璃を連想させる。……(p.186)
 創作劇の退屈さを打破すべくあの手この手の仕掛けで「舞台の楽しさの復権」をもたらした、〈小劇場〉運動のようなパフォーマンスを太郎冠者氏が見せたらしい。個人的には、調べる契機を与えてもらったことになる。感謝したい。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150804-00000009-wordleaf-pol(『「原発にミサイルを撃ち込まれたら? 」山本太郎議員の質問は杞憂』)
 http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-04/17/content_28569583.htm(「日本専門家:日本のミサイルは世界一流 米国人も驚嘆」)