重力/Note公演『イワーノフ』観劇


 昨日8/8(土)は、中野のテレプシコールで、重力/Note公演チェーホフ原作『イワーノフ』(池田健太郎訳、鹿島将介構成・演出)を観劇した。劇場は、中野駅南口から徒歩10分ほどのところにある。外観は老朽化した建物で、中の待合室も冷房装置はなく、開場を待つ間汗が吹き出てしまう。現われた鹿島さんに訊くと、「ここは舞踏公演でよく利用されているところ」とのこと。しかし開場後入ってみると冷房も利いていて、けっこう広く階段状に座席が設営されてあり、立派な劇場であった。北区豊島のシアター・バビロンの流れのほとりにてでこの劇団の旗揚げ公演を観たのも、チェーホフ劇『かもめ』であった。それ以来、いろいろなところで同劇団の舞台を観ている。東京と横浜の街歩きを楽しまさせてもらっているともいえよう。


 この舞台では、登場人物は、イワーノフ(ニコライ・アレクセービッチ)、アンナ・ペトローヴナ(アニュータ)、サーシャ(レーベヂェフ家の娘)、ボールキン(イワーノフの領地の支配人)、リヴォーフ(青年医師)の4人のみであるが、原作では、シャベーリスキイ伯爵、レーベヂェフとその妻、ババーキナ(若い未亡人)など多くの人物が登場する。
 理想への情熱を喪失して、ひとはなぜ生き続けるか? という問いかけが、感傷への傾斜を排除した登場人物たちの声と動作の交錯を通して投げつけられる。原作では、第3幕と第4幕との間には約1年ほどの時間が経過するが、この舞台では共時的構造に拘っているようである。台詞も場面もシャッフルされている。舞台装置はシンプルで、犬小屋の大きさの館の模型が置かれているだけである。登場人物たちの人生・生活の拠点であり、また脱出できない牢獄でもあることを暗示していよう。驚いたのは、左奥の四角い窓で、始めから舞台に出ていたアニュータ以外は、そこから登場したこと。イワーノフとサーシャとの抱擁のシルエットもその窓に見える演出は、心憎い。
 アニュータが、イワーノフの言葉を聞いてピストル自殺してしまう(原作にない)挿話が入る。思い切った演出である。原作の終幕で、イワーノフはピストルを手にする。『チェーホフ全集12』(中央公論社)の『イワーノフ』(池田健太郎訳)では、

イワーノフ:どこへ行くのです? 待ってくれ、僕は一切のけりをつける! ああ、僕の内部で青春がめざめた、昔のイワーノフが語りはじめた! (ピストルを取り出す)
サーシャ:(叫ぶ)あたし知っている、この人が何をするつもりか! ニコライ、お願い!
イワーノフ:長いあいだ坂道をころがりつづけたが、今こそ止まるのだ! 恥を知るべきだ! どいて下さい! ありがとう、サーシャ!
サーシャ:(絶叫する)ニコライ、お願い! 皆さん、とめて!
イワーノフ:ほっといて下さい! (わきへ走って行って、引き金を引く)

 鹿島将介演出では、イワーノフがこめかみに当てたのはピストルではなく、アニュータが手にしたピストルとともに椅子の上に置かれてあった、熟したトマトであった。首から鮮血のようなトマトの果汁が体に滴り落ちて立たせるイワーノフの姿は、「このベタな顛末が新しい文学/演劇になると意気込んだのは、若き日のチェーホフだ」とする演出家の、ピストル自殺による決着に対する批評性を感じた。旗揚げ公演の『かもめ』演出においても、終幕のトレープレフの自殺を狂言としていたのであった。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『イノセント』の主人公のピストル自殺の幕引きを、脈絡もなく思い起こしたことであった。
 チェーホフ作品世界の喜劇性を笑う余裕も、欲しいところではある。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100617/1276763302(「チェーホフ劇はどこで笑うのか?:2010年6/17」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20100819/1282198265(「上野不忍池池畔でチェーホフ観劇:2010年8/19」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140202/1391320822(「チェーホフプラトーノフ』観劇:2014年2/2」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20140715/1405391587(「チェーホフ没後110年:2014年7/15」)
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20150708/1436320429(「チェーホフ劇とコロス:2015年7/8」)