呉座勇一『戦争の日本中世史』を読む(Ⅱ)

 第三章『南北朝内乱という新しい「戦争」』と、第四章「武士たちの南北朝サバイバル」を読む。第三章で、後醍醐天皇足利尊氏鎌倉幕府滅亡へのそれぞれの関わり方がわかって面白い。第四章では、60年の永きに亘った南北朝の戦乱の中で、武士たちがみずからと一族の生存、そして所領を守ろうとして苦労、腐心し時代に翻弄されたかを知ることになる。引き続き、戦後歴史学が前提としてきた階級闘争史観との訣別の姿勢が一貫している。
 後醍醐天皇は、「宋学朱子学)に傾倒し、中国の宋朝で成立した皇帝独裁制をモデルとした新しい国づくりを考え、そのための障害である鎌倉幕府を滅ぼしたのだ」という説があるが、「宋学を勉強すると自然と皇帝独裁制についての理解が深まる」ということは全くないのである。後醍醐は、「確かに倒幕を実行したが、それは宋朝のような君主独裁制を実現するために行ったとは言えないと思う」。後醍醐天皇は、尊氏を筆頭とする武士たちとの共存の道を選ばず、幕府の復活を断固として拒否したのはなぜか? 鎌倉幕府滅亡の過程が大きく作用していると考えられるとのことである。
……難事業だと思っていたことが予想外にあっさりと成功した時、その人物に忍び寄るのは慢心である。「オレ様はすごい。天に選ばれた存在だ」となってしまう。自らのカリスマ性に対する過信は、足利尊氏との妥協を難しくし、最終的には建武新政を崩壊に導いたのである。……(p.109)
「世俗での地位を捨てて、浄土に往生するために仏道修行に励むつもりだったらしい」足利尊氏について躁鬱病説もあるが、「もともと尊氏の挙兵は後醍醐天皇への反逆という積極的意図を持つものではなく、進退きわまってしぶしぶ腰を上げたという、いわば自衛行動だったのだから、無事に新帝を擁立できた以上、隠遁しようと考えても不思議はない」のである。またいつか京都の等持院を訪問参詣したくなった。
 尊氏の全権限を代行していた弟の直義と、尊氏の執事高師直の確執が党派対立に発展し、ついには南朝を巻き込んで、60年戦争が続くに至るのである。「故郷から遠く離れた地で討死、それが南北朝時代の日常だったのである」。それに比べれば、『鎌倉後期の「悪党」事件なんぞ、所詮は小競り合いである』。
 さて戦争においては兵站の問題、つまり兵粮の確保が重要である。略奪による現地調達では限界がある。そこで兵粮料所が設定された。兵粮米徴収のために時期を限って室町幕府が配下の武士に預けた土地のことであるが、現実には、諸国の大将や守護が独自の裁量で国内に兵粮料所を設定し、幕府がそれを追認するという流れが一般的だった。
……敵方所領にも設定し得るという性質を考慮すると、兵粮料所は現地調達にも有効な仕組みである。実は、武士たち自身が食糧徴発に出かけることは大将・守護からすると好ましくなかった。それは別にモラルに反するからではなく、軍の規律が乱れ進軍に支障をきたすからである。その意味では、兵粮料所を設定し荘園側に兵粮米を供出させる方が、略奪は略奪でも、よりスマートな略奪と言える。……(p.134)
 守護が荘園に対して「人夫」という非戦闘員と、「野伏」という戦闘員を賦課しているが、駆り出された百姓でしかない「野伏」のゲリラ戦法など重視するに値しない。
……日本史学界が「ゲリラ」という言葉を使いたがるのは、「ベトナム人民がゲリラ戦によってアメリカ帝国主義に勝利した!」というベトナム戦争への強い思い入れに由来すると思われる。そう、例の「階級闘争史観」である。だが、この理解は完全に間違っている。……(p.139)
 第四章で驚かされるのは、内乱期武士の戦意のなさである。「高幡不動胎内文書」の解明から浮かび上がる「内乱期武士の“軟弱„な姿は、これまでの研究が想定していた勇壮なそれとかけ離れており、中世史学界に衝撃を与えた」とのことである。
……戦争に青年・壮年の男性が動員されるので、小さな武士団の場合、家に残るのは老人・女性・子供だけ、ということも少なくない。もし、戦地から男たちが帰ってこなければ、その家の所領経営はたちまち破綻の危機に直面する。周辺の武士から侵略を受ければ、なす術がないからだ。
 従軍を嫌がる武士たちは、何も臆病なわけではない。彼らは自分が死ぬのが怖いというより、己の戦死によって遺族が生活できなくなり家が滅びることを恐れていたのである。中世においては、戦死は最高の戦功とされ遺族には恩賞が与えられたが、これは、そうでもしなければ武士たちが命の危険を冒してまで戦おうとはしなかったからである。……(p.153)
 戦死のみならず、「力こそ正義」にあって、戦傷も在地領主としての務めを困難にするため戦争参加の大きなリスクであった。また遠征によって武士が本領(中核的な所領)を離れている間、留守宅を預かる力あるものが不在となるリスクも存在したのである。
 内乱という非常時にあって、分割相続から嫡子単独相続へという流れに逆行する、「兄弟惣領」という兄弟による均分相続も生まれている。一時的なもので、武士の「非常時」を乗り切るための危機管理策であった。内乱が思いもよらず長期化してくると、幕府の出陣命令に素直に従って遠征に参加することは、メリットよりもデメリットの方が大きくなってしまい、幕府の度重なる軍役賦課は鎌倉後期以降の「一円化」の流れを妨害した。戦争から下りて、地域に根を張りきめ細やかな支配を行うこと即ち「一円化」に専念した武士だけが、生き延びることに成功したのである。
 武士たちはいわば戦時立法として、公方(将軍・大将・守護など)への軍事的忠誠を誓う条文をもつ「一揆契状」を作成して、近隣・一族の協力的関係を構築した。これは、「自ら知恵をしぼって生き残るための術」の案出であったのである。

戦争の日本中世史: 「下剋上」は本当にあったのか (新潮選書)

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