『NINAGAWA・マクベス』1980年初演観劇

 http://ninagawamacbeth.com/(「NINAGAWAマクベス公式サイト」)
蜷川幸雄一周忌記念公演」として、『NINAGAWA・マクベス』が7/13(木)〜7/29(土)、彩の国さいたま芸術劇場・大ホールにて上演されているとのこと。
 1980年2月日生劇場にてこの初演を観劇してる。メモしておきたい。



 初演パンフレットに寄稿の、シェイクスピア学者故高橋康也氏の「満開の桜の森が動くとき」が面白い。
……追いつめられたあげくに妻の死を知らされたマクベスの呟き、「消えろ消えろ、つかの間の燈火(ともしび)! 人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、出場が終われば消えてしまう……」 この虚無的な名台詞において、人生と芝居は正確に重ね合わされている。「燈火」は単に生命の比喩ではなく、いまロンドン・グローブ座の、東京・日生劇場の、舞台で物理的に燃えている燈火そのものでもあり、マクベスマクベス夫人も文字どおり役者(平幹二朗栗原小巻)なのである。人生も芝居も、あるいは人生=芝居とは、なんと空しいものか!……
……虚実に二股かけた演劇のいかがわしさを暴露することの演劇的正当性。この二重性こそ、『マクベス』という劇の思想的主題であり、かつ構造的原理である。魔女たちの唱える、「いいは悪いで悪いはいい」(小田島訳)、「きれいは汚ない、汚ないはきれい」(坪内訳)という呪文で始まる芝居で、すべての価値が転倒し、二重になってゆくのは当然というものだ。忠義は裏切りに変じ、存在は非存在に取って代わられる(「現実に存在しないものしか存在しない」)。昼の光が夜の闇に呑まれ、鷹がフクロウに襲われる。つまり自然の秩序が反自然の混沌に覆われる。疑い、不安、恐怖が人心を支配する。……
……桜そのものがいかがわしい、と言って悪ければ、両義的な象徴なのである。華麗な空しさ、豪奢かつ孤独、通俗にして崇高、生の下の死。『NINAGAWA・マクベス』の終幕は、満開の桜の森の木の下で、新しい日本的な二重性を―豊かないかがわしさを孕んだ反語的カタルシスを―実現しようとする。いや、そればかりではない。もう一つ最後に、桜吹雪のまばゆい輝きを、額縁舞台ならぬ〝仏壇舞台〟の闇の奥に封じこめるつもりらしいのである。
 マクベスさながら、蜷川幸雄がいかがわしさのまっただなかでみずからの演出家としてのアイデンティティを確立しようとした〝賭け〟――その舞台は同時に、私たち観客のアイデンティティに対して突きつけられた問いである。〝仏壇〟の扉が閉じられたとき、私たちは〝アーメン〟または〝ぱらいそ〟と言えるだろうか。それとも〝南無阿弥陀仏〟と?……
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20111201/1322718715(「日常と非日常|トマス・ド・クインシー『「マクベス」劇中の門口のノックについて』:2011年12/1 」)