女優宮沢りえの『人形の家』

 
 いま話題の女優宮沢りえさん主演の舞台を観たのは、2008年9月、デヴィッド・ルヴォー演出のイプセンの古典『人形の家』シス・カンパニー公演ただ1度だけである。ルヴォー演出だからチケットを買ったのであって、主演女優の故ではなかったが、そのたしかな表現力には魅せられた記憶がある。その折の観劇記をかつてのHPから再録したい。
◆昨日(24日)は、デヴィッド・ルヴォー演出のイプセンの古典「人形の家」(於渋谷シアターコクーン)マチネー公演を観劇。舞台は、劇場内中央に設えられた正方形の木張りの〈リング〉で、観客はこれを四方から眺めることになる。このような空間演出は、試みとしては独創的とはいえない。かつてドイツの演出家ペーター・シュタインが「ハムレット」をロシア・東京(新国立劇場)で、「真ん中の客席部分の椅子を取り払い、そこにリング状の舞台をつくり」演出したことがある。ことばとともに空間性を重視するシュタインと、ルヴォーに共通するものがあるのだろう。ルヴォー演出では、「nine」(tpt公演・於東京アートスフィア)の空間構成とそこでの展開はあまりにも美しかった。
 今回の舞台は小道具としての家具の移動のみで、いたってシンプルなつくりであったが、登場人物の不可視の内面を感じることができた。ただ台詞の日本語がはっきり聴きとれないときもあった。声が拡散してしまったからであろうか。
 銀行頭取に出世した夫トルヴァル・ヘルメル(堤真一)の前で、偽の署名による借金の秘密に苦しむノラ(宮沢りえ)が、仮装舞踏会のためのダンスを踊る場面では、もはや関心の焦点は女優の身体でも動作でもなく、劇場内全体がこころとなり、観客はその悲哀にともに浸されてしまうのである。感動的であった。ルヴォーは、中村勘三郎丈との対談(「nine」公演パンフレット)で、技の巧さを越えて「expressive」な俳優を評価すると語っているが、この舞台では「expressive」でなければ勤まらない。
 ノラとトルヴァルの関係とその崩壊のドラマについてはもう知られすぎているので、スリルはそれほど感じさせないが、病で死を宣告されたドクター・ランク(千葉哲也=おみごと!)の存在、そして、金を貸したクロクスタ(山崎一)とクリスティーネ・リンデ夫人(神野三鈴)との関係に考えされることが多かった。原作は昔河出書房新社版の『世界文学全集』収録の巻で読んでいるが、そのときは、これらの存在については不覚にも注目していなかったようだ。新鮮な驚きがあった。やはり古典の名作というものは、出会うたびに知る深い味わいがあるのだ。
 それにしても男に絶望を与えるのも、絶望の男を癒すのも(ノラ)、男を救うのも(クリスティーネ・リンデ夫人)女である。「女性が持っているパワーを描くのみならず、女というものは男なんか必要としなくなってしまう時がある、という瞬間」(「nine」前掲対談)をここでも描いているデヴィッド・ルヴォーは、女性をめぐってなかなかのロマンティストであろう。(巷間のうわさでは、これまで早々と主演女優も劇場からお持ち帰りしてしまっているようだ。)
 自分をつまりは可愛い人形としてしか扱っていなかった夫の家から出て行く終幕の場面は、階段の通路を上がった扉の向こう側に光が反射している情景。とても印象的であった。ドイツの社会学者G.ジンメルは、「橋と扉」という論考で、分割されたものを結合させるはたらきの象徴としての「橋」と対比して、「扉」について述べている。
……彼が扉を閉ざして家に引きこもるのは、たしかに自然的存在の切れ目のない統一のなかからその一部分を切りとることを意味している。しかし無形の限界がここにひとつの形態を獲得するとともに、人間の限界性は、扉の可動性が象徴しているところのもの、すなわち、この限界からあらゆる瞬間に自由のなかへと歩みでる可能性によって、はじめてその意味と尊厳とを見いだすのである。……(ジンメル著作集12「橋と扉」酒田健一訳・白水社版)
 扉の外にはノラが経済的に自立できる場がまだ用意されてはいなかったであろう(用意されていたらこの物語はそもそも成り立たない)とか、クリスティーネ・リンデ夫人の「すべて真実をあきらかにして新しい夫婦関係をつくりなおしなさい」と助言する「コミュニケーション的理性」で人間関係の問題を解決しきれるのだろうかとかの疑問は残るが、衝撃的で成功した舞台であったことは間違いない。(2008年9/25記)