ひさしぶりにサルトル作品観劇

 2/20(木)東京初台駅直結の新国立劇場・小劇場でサルトルの『アルトナの幽閉者』(上村聡史演出)を観劇した。『悪魔と神』(浅利慶太演出:1965年10月・日生劇場)など、昔サルトル劇は観ているが、ひさしぶりである。かつてのサルトルのカリスマ性はもはやあるまい。しかし自己克服の最終解としての社会主義へのアンガジュマンはさておき、その思索と表現の成果は依然として避けては通れないだろう。


 昔読んだ『アルトナの幽閉者』(人文書院・永戸多喜雄訳)は、書庫で「秩序というものに付き物のあのかすかな倦怠」(ヴァルター・ベンヤミン「蔵書の荷解きをする」)に包まれていたが、取り出してパラパラ捲ってみた。今回の舞台は、岩切正一郎翻訳に基づいている。どのような違いがあるのかわかりかねる。コルネイユを好んでいたという劇作家サルトルのこの作品の舞台は、1959年の夏ドイツのハンブルグ近くのアルトナの地に建つ、喉頭がんに侵され余命半年と宣告されたドイツの造船会社社長(辻萬長)の邸宅内の居間と、長男フランツ(岡本健一)がみずからを閉じ込め、妄想の蟹たちと対話している2階の部屋である。二つの部屋での出来事が交互に展開される。最後の場において、閂が外され出てきたフランツと父が再会する。観客は、いわば「神の眼」で両方の進行を眺めるのである。それぞれの部屋でフラッシュバックを使って、戦争中のフランツの苦悩の源となった体験が挿入される。フランス古典劇的でありながら映画的でもある舞台であった。
 長男フランツは、収容所を脱走したポーランド人を救えなかったこと、そして戦時ソビエトのある村でパルチザンの居場所を教えさせるため、隊長として村人を拷問にかけ死に至らしめた責任の重みに耐えられない日々を過ごしていた。ナチズムに協力し、痛みもなく戦後も経営する造船業を発展させている父とはコミュニケーション不能の関係とならざるを得なかったのだ。その父の庇護下でフランツは生まれ、その愛情によって育まれたことが、自己正当化の欲望からの解脱という彼の実存的課題を複雑にしている。公演パンフレットに、劇場藝術監督の宮田慶子氏と演出家上村聡史氏の対談が載っている。

宮田:ひさしぶりに『アルトナの幽閉者』を読んだときに、〈家族〉という一番ややこしく難しい問題に踏み込んだ作品だったんだなと、私もあらためて思いましたね。
上村:『アルトナの幽閉者』の仮タイトルは『愛』だったらしく、登場人物がお互いを罵り合い、きつい言葉を浴びせるその裏には、家族だからこそ、変容した愛の形がある気がします。一般人同士の関係性ではありえないけど、ナチスと通じている父親を子供たちはどこかで受け入れ、かたや戦争犯罪人のフランツという人物を許容しながら父親や弟妹は生きている。家族だからできるというか、それはそれで過剰な愛なのかもしれないですけど、そこになにか普遍的なものを感じますね。
宮田:家族という、いちばんミニマムな人間関係の単位に落とし込んだときに、逃れられない問題があらわになってきた。最も凝縮したところで成立できない考えは、世界規模に広げても成立しないわけで、まさに挑戦と言える作品ですよね。
 フランツの閉じられた部屋に入る二人の女との関わりも面白い。兄の世話をするレニ(吉本菜穂子)はいつしか近親相姦の関係に陥っていて、居間での地味な服装から変身して妖艶な紅いドレスをまとって終に部屋に侵入した、弟ヴェルナー(横田栄司)の妻ヨハンナ(美波)もフランツと抱き合うことになる。この赤色は、戦争で流された血の色であるとともに、大富豪の嫁として抑圧された女の潜在する情念を暗示していよう。美波さんの舞台は、2007年8月に彩の国さいたま芸術劇場大ホールでのガルシア・マルケス原作、蜷川幸雄演出の『エレンディラ』で観たことがある。やはり7年の歳月を思わせる女優としての成熟を感じたことである。

 アルジェリア戦争(1954~62年)の最中に書かれたこの作品は、ナチの戦争犯罪に仮託して、フランス軍アルジェリア人に対して行った残虐行為へのサルトルの憤りが込められているとのことである。サルトル作品に触発されて日本の現代史にあてはめて考える場合、歴史事実の検証に慎重であらねばならないにしても、ご破算にしてすべて正当化することは正しくはない。また美化したドイツと比較することは避けたい。

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