「巨乳の無意味さ」




 ペーター・スローターダイク(Peter Sloterdijk)の『シニカル理性批判』(高田珠樹訳・ミネルヴァ書房)の、第二部・第一章・第七節に、面白い論述がある。
……この近代の商魂たくましき乳房は、哲学的に言うなら即自的に物として実在するだけであり、対自的に自覚した身体として存在することはない。乳房が意味するのは単にひとつの権力、ひとつの魅力にすぎない。しかし乳房は、それだけで対自的に、つまり商品市場でシニカルに剥き出しになるのから離れてしまえば、いったい何だと言うのか。乳房は自分の発する権力やエネルギーとどう関わっているのか。多くの乳房は、権力と魅力、欲望のこの戯れと関わるのはもう金輪際ご免だと言う。別の乳房は、異性へのアッピールをわざと淫らに体現してみせる。「女の武器」などといった陳腐な文句の中にも、いまだこの乳房の権力意識がいくばくか潜んでいるのだ。またある乳房は、自分が広告に登場する理想の乳房のようではないのを悲しがる。世間の美意識を味方にせぬ場合には、乳房としても裸であるのは特に楽しいものではないのだ。とはいえ、かなりの乳房は熟した梨の甘味を備え、重く優しいそのあるべき姿となり、機会に恵まれては樹から落ちて誰かの手に拾われると、自分を分かってくれる人もいたかと安心する。……(p.158)

⦅写真は、東京台東区下町民家のヒメツルソバ。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆