声について

 WOWOW放送の海外ドラマ『CSI:14 科学捜査班』(土曜日)と『エレメンタリー2 ホームズ&ワトソンin NY』(木曜日)のどちらも終了してしまい、どちらにも出演していた声優田中敦子さん(前者ではジュリー・フィンレイ役、後者ではジョーン・ワトソン役)の声が、しばらく聴けなくなったのは寂しい。『コールドケース』のリリー・ラッシュ役以来ファンになっている。台詞の声に余韻があり、あれこれ想像させる味わいがある。それぞれ次のシーズンの放送が待たれるところである。
 こちらもかつて急性喉頭炎で長く声が出なかった経験を2度ほどしているので、つんく ♂さんのこの度の決断に至る絶望と勇気には感じるところがあった。あらためてふつうに声が出せることに感謝したい。
 ウォルター・ オング の『声の文化と文字の文化』(藤原書店)などの刊行後、声の文化をめぐる論議が流行していたときもあったが、いまはそれほど盛んではないようだ。仏文学者工藤進氏の『声・記号にとり残されたもの』(白水社)の次の指摘は、首肯できる。

……音声言語は「現実」の記号化の最たるものに違いない。しかしこのシステムで何かを表現するにも、あるいはこれを解釈するにも、われわれは複数の感覚器官を直接働かさせねばならないという点で、つねに肉体的限界がある。そしてこの感覚の限界こそ言葉を用いるわれわれが人間らしさを逸脱しないですむ歯止めとなっている。音声言語のさらなる記号化である文字においては、発声、聴取という感覚の制約からまぬかれた分、目だけを頼りに解読しなければならないという困難が生じる。また、話し合いの時間、場所に直接おもむく必要がないかわり、相手の姿も声もないので、テキストの真意の解釈に難儀する。書いた気持が見えないのである。逆に発信者は、こうした文字の特質を利用して相手をあざむくことができる。文字が介入しなかった吟唱時代の詩人の、声、作法、外貌といったものにおける優劣は、ごまかしがきかないだけ容易に聴衆に判断されたが、文字の利点はそのまま危険な要素ともなった。空間、時間に制約されず持続する文字は、約束事に用いられることになり、というよりは、制約をうけずに持続した結果、文字で言い表わされていることは約束事とおなじ効力を生じた。こうして人は文字に拘束されることとなった。……(p.54)



⦅写真は、東京台東区下町民家の(雨に濡れる)乙女椿。小川匡夫氏(全日写連)撮影。コンパクトデジカメ使用。⦆