ピーター・ブルックの『ザ・スーツ』観劇


 昨日11/14(木)は、東京渋谷のPARCO劇場で、ピーター・ブルック&マリー=エレーヌ・エティエンヌ演出、フランク・クラウクチェック音楽による音楽劇『ザ・スーツ』を観劇した。ひさしぶりの夜の渋谷、そしてPARCO劇場であった。この3人による舞台は、昨年3月の『魔笛』ですでに観ているし、ブルック演出の『マーバーラタ』『カルメンの悲劇』も観ている。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20120328/1332921986(「『魔笛』観劇」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130603/1370248538(「旧・銀座セゾン劇場閉館」)



『なにもない空間』の演出家の舞台であるから、とうぜん舞台装置はシンプルであり、一組の夫婦の住居の内部をそれぞれ色彩の違う6~7脚の椅子と小さなテーブル、部屋の出入口にもなる奥の衣装ハンガー、そしていろいろに使われる鏡台らしきもの(枠のみ)などだけが置かれ、それらを俳優たちみずからが動かして状況ごとに違った家具に化けさせるのである。夫役と妻役の二人の俳優以外の3人はほかの人物にもなる。バックにピアノ、トランペット、ギターの3人の奏者がいて、シューベルトほかの曲を演奏、登場人物のこころの葛藤とうねりをみごとに表現する。
 ストーリーもシンプル、アパルトヘイトが実行されていた1950年代の南アフリカヨハネスブルク西の黒人居住区で起った物語。歌手として歌うことを夢見ていたマチルダが、ふるまいは常にやさしい夫のフィレモンを裏切って若い男と不倫に走ってしまう。勤務の途中で友人からその事実を聞かされたフィレモンは、自宅に戻るとベットに男がいて、戻ったフィレモンの声であわてて窓から逃げ出してしまう。あとには1着のスーツが残されていた。フィレモンはマチルダを許さず、その男の残したスーツを客人として遇して生活をつづけることにした。精神的拷問をマチルダに与えたのである。苦悶するマチルダは、ある日街のボランティアや文化活動に参加し、人生の主体として生きることの喜びと意味を理解する。仲間たちを招いたパーティーで、マチルダは美しい声で歌を披露した直後、フィレモンからスーツを相手にダンスをしろと命じられて絶望。フィレモンが外で友人から彼女を許して耐えろと忠告され、「そうする」と決意して帰宅した部屋では、マチルダが自害して果てていた。
 インタビューで、ピーター・ブルック氏は、語っている。
……このストレスで、センバ(※原作者)はアルコール依存症になって亡くなりました。このことが指し示すのは、アパルトヘイトという怖ろしい抑圧、残忍極まる独裁政治の下の生活を強いられた人間だからこそ、夫が妻を罰するという奇妙なアイデアを思いついたのだということ。それに気づいたとき、作品のすべての面が違った意味を帯びるようになりました。
 つまりこの作品は、南アフリカについての物語というだけではなく、その土地を超えて、過去、現在、未来を通じて、残虐な独裁政治の下で生きるすべての人間についての物語になっているのです。……(同公演パンフレット)
 家庭における欲望とアイデンティティーをめぐるテーマを追求している、イプセンの『人形の家』とも、ユージン・オニールの『楡の木陰の欲望』とも相違するところであろう。かなしみと憤りが、しばらくこころに沈潜する舞台ではあった。
 パーティーの場面では、2人の女性観客と1人の男性観客が舞台に「招待客」として上げられた。この男性客はこちらのちょうど二つ前の(通路側)席に坐っていた人、危ないところであった。しかし指名されていたら、大いに「招待客」らしく〈演技〉したかもしれない。終演後、早足で公園通りを歩き、駅前に通じる横断歩道を駆け抜けつつある時、向かって歩いてくる黒人男性とぶつかりそうになってしまった。一瞬、ブルックの劇がまだ進行中なのかとの錯覚をもった。
 マチルダを演じたノンランラ・ケズワは歌を聞かせ、堪能、とくにタンザニア民謡「マライカ」は印象的であった。
 http://www.youtube.com/watch?v=bkVCT9lcUPM(「マライカ」)
ピーター・ブルック著『なにもない空間』晶文社選書)
 http://www.youtube.com/watch?v=0efWlhzV5yEピーター・ブルックの「ザ・スーツ」)
 http://www.youtube.com/watch?v=ziA0qvgKG_cピーター・ブルックへのインタビュー)