外交下手は伝統か

 酒井一臣京都橘大学助教の『はじめて学ぶ日本外交史』(昭和堂)によれば、本来移民受け入れに寛大な国柄のアメリカ合衆国で1906(明治39)年、施設不足という見え透いた口実をもって「カリフォルニア州を中心に、日本人学童を東洋人学校へ隔離する運動がおきた」。北アメリカ太平洋岸は、直接またはハワイ経由で多くの日本人移民が移動してきていて、感情的な反発を招いたのだった。そこで1908年に日本政府は、移民の制限を約束したのだったが、明文化は避けていた。1924(大正13)年、「一時帰国していた者を除いて日本からの移民を全面的に禁止する排日移民法が上下両院で圧倒的多数で可決成立」してしまった。
 1908年、埴原(はにはら)正直という若い外交官が日本人移民を視察し、「粗末で小さな家に住む日本人移民」を「下等人種」とし、「下級移民の渡米禁止は断固としてこれを継続」せよなどと、誰の味方かわからないような報告書を書いたそうである。さて興味をもって読んだのはその次である。
……埴原は、その後外務次官、駐米大使と順調に昇進するが、たびたび移民をめぐる外交問題に悩まされた。排日移民法を阻止すべく活動中、埴原駐米大使はヒューズ国務長官にあてた書簡中に「重大なる結果」という文言を用いた。これが脅迫的だとアメリカ議会で問題視され、排日移民法の正当化に利用された。埴原は大使失格の烙印を押されて帰国を余儀なくされた。……(同書pp.75~77)

はじめて学ぶ日本外交史

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