〈変質者〉谷崎潤一郎





 一昨日12/18は、東京吉祥寺シアターにて、「SCOT」公演、鈴木忠志演出『別冊 谷崎潤一郎』を観劇した。吉祥寺大通りを右に入ったベルロードの奥左に吉祥寺シアターの建物がある。1Fにカフェとロビーがあり、2Fに劇場がある。左側ブロックH列の端の4の席なので、閉所恐怖症のこちらとしてはありがたかった。最近は、ネット予約でも席番が選べる場合多く、よいことである。
 鈴木忠志演出の舞台は、七つ目である。いつもわかりやすい演劇ではないが、こころに衝撃を受けて帰路につく観劇体験となることは変わらない。アメリカの演出家ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)が、「観客を立ち止まって考えさせるような演劇」であり「答えよりも多くの疑問を与えるような演劇」(『演出家の仕事:鈴木忠志読本』SCOT)であるとしているのはその通りであるが、むろん楽しいところがあるから、鈴木忠志の舞台のチケットを求めるのである。
 今回の演目は、『別冊 谷崎潤一郎』。静岡楕円堂公演を見逃していたので、ぜひ観たかった作品だった。戯曲「お國と五平」(中央公論社版『谷崎潤一郎全集・第八巻』所収)と、短篇小説「或る調書の一節」(『同全集・第七巻』所収)の二作から構成された舞台とのことなので、あらかじめ両作品を読んでおいての観劇。『マクベス』における門口のノックを思わせる瞬時の幕間狂言を挿んで、前半が江戸時代の物語の「お國と五平」、後半が、大正時代の物語の「或る調書の一節」という構成であった。しかし当然のことながら、舞台での時間も空間も、物の配置も人物の衣装・行動スタイルなども、特殊時代的な設定から解放されている。登場人物たちは、日常の文法ではなく舞台の文法を生きているのだ。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20111201/1322718715(『「マクベス」劇中の門口のノックについて』)
……日常では決して見ることのできない光景を舞台上に出現させながら、日常世界を生きる人間の孤独や不安や苦悩を可触的にする、そういう演劇を創り出したいと、これまでずっと演出に専念してきた。そのために私の舞台では、日常では出会うことのない物たちが共存したり、場違いと思われるような音楽が突然流れたりする。……(『演出家の仕事』)
 後半の「或る調書の一節」は、原作の順序で検事と殺人犯の土工頭との対話が進行するが、前半の「お國と五平」は、仇と追われる虚無僧の池田友之丞が登場する前の、那須野が原でのお國と五平の会話は、不義密通の証拠として旅籠の隣室で録音された房事の声ということで、流される。驚き感心させられた。
 台詞が狂言の節回しのように語られるのは、二つの物語に共通している。ことばに〈音楽性〉を付与したともいえようか。日常の言語表現では捉えきれない、深奥の人間の欲望を炙り出そうとしたのであろう。
 「お國と五平」では、欲望の実現のために人を殺し、かつそれが天晴れな行為として世間と規範から称賛されるのに対し、「或る調書の一節」では、説明しがたい衝動と愉悦のために殺人行為が繰り返され、法規範によって罰せられるという違いはあっても、登場人物らがみずからをどうしようもない悪人として認めているところは同じである。二つの話を通して、抑圧者にも味方にもなり得る世間というものの怖さを、あらためて知ることにもなろう。また、男から見た女のしたたかさと魅力についても思い知らされるだろう。
シラノ・ド・ベルジュラック』でもそうだったように、作者の谷崎潤一郎も登場人物の一員である。つまり、この舞台全体が、小説家の想像力あるいは妄想の世界という構造になっている。谷崎潤一郎役が後半の検事役を兼ねているのは暗示的で、いわば己自身の測りがたい反道徳的欲望を尋問したことになる。 
……たとえば谷崎潤一郎は、どのような社会認識と感性をもって戯曲を書いたのかを考えます。そうしますと、そこには必ず犯罪者が出てくる。肯定的な人だけを出していない。それは、リスキーであることを前提にしているということです。ですから、私の場合も、このようにしたら、皆が楽しんでくれる、喜んでくれる、というような、観客がすでにもっている共通の感性を前提にしてはいません。……(「想像力によって獲得される〈危機感〉」『利賀から世界へNo.4』JPAF) 
 じつは劇場にたどり着く前のベルロードで、警官らが赤い服の男を路上に押さえつけている現場に遭遇していた。町中にも人のこころの深淵にも、〈変質者〉は存在するということであろうか。
 http://d.hatena.ne.jp/simmel20/20110921/1316594132(静岡での鈴木忠志演出『エレクトラ』『サド侯爵夫人』)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の万両。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆