東北大震災以降共同体論議が相変わらず盛んなようであり、「オウム事件」の裁判にもいちおうの決着がつけられた、このタイミングで、かつて書いたエッセイ「共同体と人形」を再録しておこう。「十年一昔」の感慨を抱かせるのか、それとも変わらない思想・言論状況を思い知ることになるのか予測しない。
◆昨今、共同体の復権もしくはその再認識を願う傾向の言論が眼についた。評論家の宮崎哲弥氏は、「いずれにしても、直接対面的な人間関係のなかで積み上げられる秩序、共同性のようなところから始めていかないと駄目なんじゃないかという気がします。それは旧来のムラ社会の共同性の復古ということではないんです。それが、私がオウム的なものに提示できるオールタナティブなんです。自己顕示型や私探しの発言を拒否しているのは、こうしたものを提示していこうとする政治的な決意によるものなわけですが、個人の時代だから、オウム的なものやニュ−エイジ的なもののほうが強いですし、いまやだれもこんなことは言わないんですけれどもね」(「樹が陣営」96年9月号)と語っている。「共同性のようなところ」の具体的イメージははっきりしないが、時代のまっとうな潮流はこの方向に向かいつつあるのだろうか。
オウム真理教や「事件」を生み出した前提となる状況に「社会のリアリティの欠落」のあるのを憂える、演劇に詳しい社会学者の吉見俊哉氏も、80年代半ばから、若者の演技に変化があり、「身体の不自由さとぶつかりあいながら演技が成立するというより、するするっと楽に演技が成立」してしまうのは、身体に抵抗感がなくなっているからであり、そのことは、「家族とか地域の問題と同じで、もちろん家族や地域を単純に復権しようとは全然思ってないんだけれども、地域のリアリティとか、社会、国家のリアリティつまり自分の位置づけられているまわりの状況といいますか、社会的なコンテクストに対するリアリティみたいなものを十分感じながらそれを超えていく」のと、オウム的身体の解脱とはまるで異なるものだと発言している(『消費される宗教』。
共同体の「単純」ではない「復権」とはなにか、ここでもその、みちすじやイメ−ジは定かでない。そもそも復権されるべき共同体は、すでに崩壊した、あるいは崩壊しつつある実体として過去にあった共同体のことではあるまい。
パチンコの「CR機の登場とともに、固定客は魔力にとりつかれた。伝統社会が消滅したために、賭博に代わる楽しみは見つからない。孤独と子育てに疲れ、かつ自制力の欠けている主婦の中には、この魔力からのがれられない人がでてきた」と、賭博としてのパチンコの魅力を指摘して、エコノミストの竹内宏氏も、「伝統社会が崩壊したコストは非常に大きい。一刻も早く新しいコミュニティを創造したいものだ」(「日本経済新聞」H8年11/4号)と述べている。
コミュニティや共同体を創造するとはどういうことか? 新しい共同体といい、「単純」でない「復権」といい、これまでの共同体の構造や歴史と無縁なところで成り立つはずもないだろう。
「われわれは共同体を一つの民族(または国民)社会の政治的、社会的、経済的、歴史的な関連の中で把えることが重要である。なぜなら共同体は特定の民族の全体社会によって性格づけられているからである。言葉を換えれば、その民族の文化伝統に規定されているからである。だからこの関連から共同体を抽象して考えてみても、共同体を理解することはできない」(有賀喜左衛門「共同体と現代」『伝統と現代』43号所収)という指摘は、過去の共同体についてだけではなく、創造したいとされる理念としての共同体についても考えられるべきことだろう。
「民族の文化伝統」に根ざした共同体には、排除や差別の構造も負の側面としてあったことを忘れてはならない。
家族や地域共同体など、それなりに壊れてしまってもよいのではと、これまで高を括っていた人たちも深夜の街角で、「オヤジ狩り」の対象になりそうな恐怖から、あわてて共同体の復権に唱和するかも知れない。復古的ロマンティシズムというよりも、もっと切実な願望が生まれているのだろうか。
ともあれ、すぐには新しい共同体などできそうもないようである。
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(土井典制作人形)
ひと組の夫婦の別れをきっかけにして、一体の人形がわが書斎に入ることになった。人形作家土井典さんの作で、もともとは、結婚の際に夫であった人が女に贈ったものであった。当初数十万の値で購入された人形を、女の人から間接的に少し安い条件で私が引きとったのである。
黒い革のコルセットが胸から腰までを締め付けている以外は裸で、大きな瞳を垂れた黒髪で隠している。唇には黄金色の剣がくわえられている。アイルランド生まれの写真家ボブ・カルロス・クラ−クの写真を思い出させた。被写体のモデルたちはこの人形のような少女たちではないが、「ボブ・カルロス・クラークの写真の魅力のひとつは、生身の肉体とアンドロイドの肉体がかなり乱暴に接続され、せめぎあっている状況を、ストレートに表現していることだろう」(飯沢耕太郎『写真とフェティシズム』トレヴィル)から、飛躍した類推ではない。コルセットの胸の隙間からのぞいているピンクの乳首が、この人形全体の肌のテクスチュアをエロティックなものに感じさせていて、男なら想像の中でつい愛撫したくなりそうである。
この作家とともに亡き澁澤龍彦に愛された四谷シモンさんによれば、「僕の生活のまわりには、いつもかわいい人形がいて、できることなら、いつもベットにちゃんと寝ていてほしいんです。僕は人間はいやなんです。やはり人形は衣食住があるんです」「だから僕は、僕じゃない誰かのところに行ってしまった人形には、人間に対する嫉妬心と同じ質の嫉妬心をわかせています。いまも、僕の好きな人形を人が持っているほどくやしいことはないなあ」(『シモンのシモン』ライブ出版)。
人形師の魂をも思いつつ、わが室内における美少女人形との〈ミニ共同体〉を維持したい。ただしそこに惑溺することなく、天下日本の共同体の崩壊と再構築のドラマを自らも演じることになるであろう。(個人メデイア「インテルメッツォ」1997年発表、2000年10月改稿)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、上小葉のセンナ(別名カッシア=Cassia)、下スプレーマム(菊:spray-mum)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆