日常と非日常

 大災害とあってはならない事故という非日常のなかにも、取り戻されるべき生活の日常はあり、ありふれた日常のいとなみのなかにも破滅や崩壊の危うさが潜在している。災害の情報と映像に慣れすぎるのは精神の弛緩と頽廃につながるが、日常の生活を堅実にこなそうとすることじたいは、健全といえる。

 演劇における日常と非日常との緊張関係とでもいうべきことを論じているものとして、トマス・ド・クインシーの『「マクベス」劇中の門口のノックについて』(小池鮭訳:『著作集・第1巻』所収:国書刊行会刊)が面白い。
 シェイクスピア作「マクベス」において、マクベスが国王ダンカンを殺害した後、館の門口でノックの音が聞えるという件(くだり)に困惑を覚えていた著者が、みずからの悟性に目を曇らされずに、感じたところを考察して洞察に至ったこと、そしてその内容を述べた小品である。殺害を描く場合、被害者は身を守ろうとしてどんな偉大な人でも「人間の本性をその最も低劣屈辱的な物腰において曝(さら)すものである」から、詩人は、関心を加害者のほうに向けなければならない。
……だが加害者、詩人が敢えて描かんとする殺人者の心中では、さだめし、激情—嫉妬、野望、復讐、憎悪—の大嵐が荒れ狂っているに違いない、それが彼の内に地獄を作る。われわれの目を注ぐべきものはこの地獄なのである。…… 
 この殺害の〈現実〉を目撃して読者・観客は、「人間性が消え失せ、死滅して、代わって悪魔の性がその座を占めた」と感じられるよう為向けられるのだ。この日常の中断・休止は、「門口のノック」のような突然の「人間生活の歩みの再開」を告げる音によって、いよいよ「ひとしお心に響いて感じられる」のである。
……これは反動の始まったこと、人間的なるものが悪魔的なものの上に捲返し、生の鼓動が再び打ち始めることを耳に知らせるのである。われわれの生きている世界が再び座を占めることは、しばしばその世界を中断していたあの恐るべき間(あい)狂言を先ず身に沁みて感じさせるのである。……
 シェイクスピアの劇作術の細かいところをよく洞察したものである。なるほど芝居で確かにこの「門口のノック」のところで、なされた惨劇の非日常性を息を呑んで思い起こしていたかも知れない。
 http://james.3zoku.com/shakespeare/macbeth/macbeth2.3.html(「マクベス」第3幕・第3場)
⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のポンポン菊(球形のスプレーマム)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆