吸血鬼は女か男か?

 夏になるとなぜか、幽明の境を漂流しているらしい吸血鬼の存在が思い起こされる。さて映画『ドラキュラ伯爵』シリーズの名優クリストファー・リーのイメージが鮮烈で、吸血鬼は男との思い込みがあるが、そうでもないようである。 
 吉田純子神戸女学院大学教授の編集になる『身体で読むファンタジー』(人文書院)は、異形の者が登場する内外のファンタジー作品について、「女性の身体」を解明の手がかりとも、結論とも、即ち核として縦横に分析している。このうちの二編、フランケンシュタインについての阿部美春氏の「フランケンシュタイン・コンプレックス」と、ドラキュラについての、細川祐子氏の「ドラキュラと女たち」を読んだ。「女性学」のお決まりの前提と結論の環のなかで、ああも言えればこうも言える式のエッセイといった趣の論考であるが、読んで面白く、啓蒙されるところ少なくなかった。
イリアム・ゴドウィン著、白井厚・尭子訳、未来社
フランケンシュタイン』の著者メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、父親が、ウィリアム・ゴドウィンで、母親が、女性解放思想の先駆者メアリ・ウルストンクラフトである。父親の崇拝者であった詩人のシェリーと愛しあい、妻子ある男との恋愛に反対する父親を逃れてイギリスからスイスへ渡った。逃亡先のジュネーヴで書かれた作品が、『フランケンシュタイン』である。メアリが産まれて11日後に母親のウルストンクラフトは、細菌感染による産褥熱にかかり亡くなっている。メアリ10代で初産の子も未熟児で産まれて数日後に亡くなり、ジュネーヴに連れてきた男の子も3年後に亡くなった。さらに3番目の子も1歳の誕生日を迎えてすぐに亡くなる。メアリは、「生命創造については観念にとどまらない不安や恐怖を味わっていたのだ」。
『「生む性」を担った女性の悪夢から生まれた『フランケンシュタイン』とは、まさに悪夢を描くことによる悪夢ばらいの物語といえる。男性なみの知性をもつと同時に「生む性」の修羅場をかいくぐったメアリが、「生む性」を担う身体とその経験を悪夢として受けとめたのも当然に思われる。女性は、起原神話から現代の科学にいたるまで父権的言説のなかに身体を囲いこまれ、自分の身体を悪夢として経験してきた。この悪夢から逃れるには、女性の身体をめぐる神話やシンボルを生みなおさなくてはならない。創造主であると同時に創造物でもある女性の悪夢が、フランケンシュタインと怪物となった。』(前掲阿部論文) 
「女吸血鬼」のほうがゴシック文学以来の伝統なのだった。わが少ないDVDコレクションのなかでももっとも好きな4作品。)

 吸血鬼ドラキュラといえば、15世紀トランシルヴァニアの残虐な領主ヴラド・ドラクル(ドラゴン)ことヴラド・ツェペシュがモデルとなっていることから、誰でも男性の系譜においてそのイメージを考えてしまうが、この細川論文を読むと、その誤解に気づかされる。原作者のブラム・ストーカーは劇団で働いていて、『ドラキュラ』は、劇にすることを頭において舞台での迫力を増すために、「それまでは通常女であった吸血鬼を男にした、と書き残している」そうである。彼自身この作品出版までの数年間、夜な夜な、3人の淫らで不潔な女たちが彼の首筋にむしゃぶりつくという悪夢にうなされていたという。
 このような女のイメージは18世紀の英国ゴシック文学にはじまり、それは19世紀の血に染まった白衣で通りがかりの主人公を襲うという「血まみれの尼」となって収斂し、それが、「日常性」という味つけをほどこされ、ごく普通の姿をした血まみれ女が登場するにいたる。これを男にしたのがドラキュラというわけである。
 19世紀の英国階級社会において、貧困な肉体労働者が選挙権を獲得し、余裕ある女性たちは男の「生産」中心主義に対して、男の地位上昇のための「消費」に勤しむとともに、女性の権利拡大を主張する動きにも手を染めた。かくして「汚れを潜ませた身体で男の安寧を蝕む女と貧者たち。これらの二つのイメージを融合させたのは、疫病コレラであった」。
 インドから侵入してきたコレラこそ、トランシュルヴァニアから腐植土の血とともに英国に渡ってきたドラキュラなのであった。吸血鬼の毒牙によって死んでしまう女性の臨終の描写は、コレラ患者が脱水症状で死亡する前後のようすを参考にしたらしい。
『ルーシーの「手術」を終えた男たちは、「死と腐敗の痕跡のない空気」や「都市の雑踏」「ガス灯の明かり」に安堵していた。ガス灯の廃液や人馬の糞尿がテムズの最大の汚染源であったことをストーカーは知らなかったのだろうか。下水道に流れたのは、廃棄された人々であり、文明に負の刻印を受けた身体である。ドラキュラの棺の土を聖水で浄めることは、女の身体に精液や幻想を流しこむことであり、それはまた、巨大資本を投下して水道や鉄道や投資ネットワークを張りめぐらせることだった。』(前掲細川論文)
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⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家のセロシア・ベネズエラ(野鶏頭)。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆