波について:富岡多恵子『波うつ土地』

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 富岡多恵子の中篇小説『波うつ土地』には、波の、時間としての、空間としての、比喩としてのイメージが充溢している。谷戸を挟む丘陵が波うつように連なる土地は、縄文人の暮らしの跡が遺跡として発掘され、次々に巨大な団地と住宅が建設されつつある。昭和のある時代のそういう地域を舞台に、ジェンダーの柵から自由となって主人公わたし=共子が、男ー女関係、女ー女関係の脱構築をみずからの身体を通して試みる物語。並々ならぬ技巧に感服。わたし=共子が、妻子ある大男との即物的情交を繰り返してから海外に飛び出し、帰国後丘陵地帯の建設現場近くでトラックに乗せてもらい、「自分の中に、波の音が聞える」場面を描写している、ここに作品の魅力と表現上の個性が凝縮されている。 

 わたしはトラックに乗せてくれた男のことを思い出すと、気持が高揚するのを感じた。自分の中に、波の音が聞えるのである。風が強まり、波が少しずつ高まって、ついに岸辺に背の高い波が舞いあがって倒れるような光景が、自分の中にひろがる。思い切り舞いあがった水の壁が、曲線を描いて空を包むように、ひといきに岸辺の砂に倒れこむ。立ちあがった波という水の壁の内部は、真空の別の宇宙である。波の内側の壁は粘膜である。
 波は倒れる。鋼のように硬直して立ちあがった水は、ひと思いにこなごなにくだける。土地の波頭から放り出されてあらわれた、ちぢれ毛の男を、わたしは自分の波から放り出してしまった。男をまきこんで、波をさらに高くまで押しあげなかった。(富岡多恵子『波うつ土地・芻狗』講談社文芸文庫pp.185〜186)