韓国のこと

 昨日のアジアカップ準決勝「日本vs.韓国」戦は、PK戦までもつれて結局日本の勝利、感動的決着であった。両軍選手およびサポーターの対応・表情など、テレビで観る限りでは、かつての悲愴感のようなものや、むき出しの敵愾心のようなものは薄らいでいて、好い印象を抱かされた。
 昔、釜山(プサン)・慶州(キョンジュ)・公州(コンジュ)・大田(テジョン)・大邱(テグー)・扶餘(プヨ)・ソウルと旅したことがある。どこかでタクシーを降りたとき、分厚い札束を数えていたところ警官の尋問を受けたこともあった。とっさに「イルボン、イルボン」と言ったら解放してくれた。プヨで食した白馬江(ペンマガン、昔の白村江=はくすきのえ)の鯉料理の味などとともに、なつかしく思い起される出来事である。紀行文など書く趣味はないので、筆は措いて、かつてHPに記載したものを再録しておきたい。

小倉紀蔵(きぞう)東海大学外国語教育センター助教授(当時)の『韓国は一個の哲学である』(講談社)は、韓国の社会と文化を考える上で必読の書といえるだろう。表層の現象をもっともらしく解説する類いの本ではなく、根本にある哲学・思想を考察している。著者の小倉氏は、東京大学独文科卒業後、ソウル大学哲学科博士課程で朝鮮朱子学を学んだ研究者で、この書において、わずかな体験や目撃を一般化してしまう、いわゆる論理学的誤謬でしかない韓国文化論とは深さの違う議論が期待できるのである。
 周りを大国に囲まれた地政学的な位置関係から、韓国は、道徳志向性=「理」志向性の強い国となったという。力に対抗するに道徳性=「理」を強める道を選んだわけだ。中国においても北方の金による圧迫に対する危機意識の中で誕生した、朱子学が、朝鮮時代(朝鮮王朝時代1392〜1910年→さらに大韓帝国時代1897〜1910年も含めて著者が呼ぶ時代)儒学の中心になり、今日に至っている。
「理」とはいうまでもなく、真理・原理・倫理・論理・心理・生理・物理……などを総称した概念で、普遍的な規範であり、道徳性であった。いっぽうの「気」とは、物質性のことで、すべてが「気」から成り立っていると考えるのである。「気」は大きくは「一気」だが、陰陽の「二気」の場合もあれば、木・火・土・金・水の五行に分けられる場合もある。人間は本来天から「理」を与えられているのに、悪い「気」=濁った「気」が雑じってしまい、悪い人も存在することになる。朱子学的人間観の基本は「性善説」なのだ。「理」を十全に体現した「ニム=尊敬すべき人」になるべく、克己もしくは修養を積むことが求められる。「理」が濁った「気」によって少ししか現われていない「ノム=軽蔑すべき人」でも、その努力によっては、「ニム」に上昇できるという考え方が、韓国社会のダイナミズムの内的原動力となっているのである。そしてよく言われる韓国人の「ハン=恨」という感情も、「理」を体現したいというあこがれの感情のことなのであり、それが挫折した時の悲しみ・無念・痛み・わだかまり……などの思いも同時に意味するわけなのだ。つまりたんなる恨みの感情ではないということがわかる。
 韓国の社会全体が、この「理」と「気」の二つから成立しているということをしっかり理解しておくことが大切なのである。
「政治の世界、歴史の世界、学問の世界、血統や学統の世界など、旅行者の立ち入りできない〈理の世界〉には、それはそれは厳しくて牢固なる秩序意志が存在する。
 その息のつまるような圧力の窮屈さは、市場のあの自由で奔放な空気とはまったく違う別世界なのだ。
 むしろ秩序づける〈理の世界〉の力が強ければ強いほど、それを癒す〈気の世界〉の力も強くなるのだといえる。双方が力の競り合いをしているのだ。
〈理の世界〉は緊張に満ちた怖い世界である。
 旅行者が〈気の世界〉のみをかいま見て「韓国は日本よりルーズでおおらかで気楽だなあ」と考えるならそれは韓国社会というものに対する大いなる誤解ということに注意しなくてはならない。
 韓国は、そんな甘っちょろい国では決してない。」(2005年1/1記)

⦅写真(解像度20%)は、東京上野東照宮ぼたん苑の牡丹。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆