対東アジア・対インド外交の方向性

 https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0822.html(「平成19年8/22『インド国会における安倍総理大臣演説:Confluence of the Two Seas』)


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 安倍外交におけるインド重視の方向性は支持したい。かつても今も難しい相手は中国と韓国である。
 https://www.sankei.com/column/news/181030/clm1810300005-n2.html(『中国の「微笑」は戦術的秋波だ:キヤノングローバル戦略研究所研究主幹・宮家邦彦』)
文在寅政権・財界・メディア、裏切りと陰謀の構図 – アゴラ
 国民感情というより国民〈激情〉が法を超越して国家政治を動かすらしい韓国の政治事情を、成熟した民主主義として称賛し憧れる人たちがわが日本に存在しているが、外交の問題がデモの盛り上がりで決着したらとんでもないことである。
 「韓国には2つの北朝鮮がある」 歴代最高位の北朝鮮亡命外交官・太永浩氏インタビュー | 文春オンライン
 http://www.buzzfeed.com/jp/yoshihirokando/korea-japan(「元徴用工に賠償を命じる韓国最高裁の判決に日本政府が猛反発 その理由とは」)
 http://agora-web.jp/archives/2035475.html(『韓国の「戦勝国史観」が日韓関係をゆがめる:池田信夫』)
 https://japanese.joins.com/article/659/246659.html(『中央日報11/1:<韓国、徴用工判決>日本メディア、「韓国疲れ」主張しながら非難一色』)
 さて、昔(2007年10/27記 )わがHPに記載した古田博司筑波大学教授の『新しい神の国』(ちくま新書)についての紹介記事を再録しておこう。
▼「脱欧入亜」論というほどではないが、アジアへの関心が強まりつつある。めざましい経済発展を進めている中国とインドの〈脅威〉も背景にあるだろうし、ヨーロッパからの文化輸入に少し食傷気味という心理もかかわっているだろう。
 朝鮮史の研究者古田博司筑波大学教授の『新しい神の国』(ちくま新書)は、中国・韓国・北朝鮮の東アジアと、日本との文化・文明の異なるところを比較論的に論じていて、参考になる。いったいにイデオロギーと党派性および外交上の遠慮に制約されて、自由な思考がとりにくい分野であるが、「世界」からも「正論」からも原稿依頼がくるこの著者は、そのような配慮なしに確かな認識を求めている。韓国で6年間の研究生活を送り、皇室主催の韓国大統領夫妻歓迎晩餐会に招かれるほどの実力がある気鋭の学者の議論であるから、その事実認識のところはとくに謙虚に読むべきであろう。ようするに生活および世界認識において「宗族」関係を最も重視する東アジア諸国と日本では、文明圏上の非連続が存在するので、これらとの連帯に国家的努力を傾注することは無駄であるというのが、古田教授の挑戦的な提言である。

 日本は脱亜も入欧もする必要はないのであり、既に当初から脱亜していたし、入欧の目的はすでに完結した。個人主義教育などという無駄はもうやめ、武士道なんぞという狭い道徳は自分の家だけでやっていただき、感謝・尊敬・愛情くらいは子供に教え、人権の尊厳を大切にし、非人権国家から拉致被害者たちを絶対に奪還する。そのような文明圏の定立に筆者自身が誇りを持ちたくて、この本を書いた。

 面白かったのは、2チャンネルの書き込みなどに見られる揶揄・からかいを、日本のteasationの伝統として、(むろんその危うさにも触れつつ)評価しているところである。韓国には根付いてしまった朱子学も、このからかい精神によって幸い歴史的に定着することなくすんだという。なるほど。

 茶化しは日本の庶民の伝統であった。しかし、これら道学者先生たちを茶化せる実力はじつは相当のものではなかったのか。漢学の素養が相当のものでなければ、パロディー本など書けぬ道理である。彼らの実力をゆめゆめ軽んじてはならない。

 この茶化しの態度の基底部には、日本人の「実感依拠」があるのではないかと、教授は考える。

 福田恆存は、かつてそれを語り、『近代文学にかぎりません。日本人の思想的態度に見られる「実感依拠」の傾向こそ、日本に「観念論」も「唯物論」も生みえなかった大きな原因ではないでせうか』(「個人主義からの逃避」)と、実に的確に捉えている。

 中国に生まれ半島に浸透した朱子学についても、感心した説明であった。

 朱子学に「格物致知」という考え方があり、広辞苑などには「物の道理を究め尽くして、わが後天的の知を致しきわめること」などと、わけのわからないことが書いてあるが、筆者などには、これは目に見える物に対して、存在すると思っている物を照射することなのだと思われる。

 そういうことか。「存在せねばならぬ物が現実にある物を乗り越えていくというか、前者に後者を奉仕させていく」ということのようだ。「南京虐殺30万人」の主張もこの「格物致知」の思考と無縁ではないらしい。「宗族の繁栄こそが、国の繁栄に優先する」ことのために操作・誘導された東アジア諸国の「反日ナショナリズム」に対処するには、この「格物致知」を覆す「重い現実」を提示する以外にないと述べている。みずから「悪役」を意識した古田教授の見解には、批判も当然あるだろうが、そのまえにとにかくアジアなるものを勉強することが先決であろう。地道な実証の蓄積をもった学者の研究に敬意を払うべきである。
東洋経済』10/27号「特集・インド人と中国人」は、とくにインドの現状を知る上で有益である。ITと教育の見事さに注目が集まるが、正確な情報も必要だ。たとえば、インドに強いネットワークをもつ国際法律事務所の小島秀樹氏は、述べている。

 弁護士も日本とは異なり、大学法学部を出て学士を取れば誰でもなれる。そのため、80万は優に超える弁護士がいる計算になる。企業が弁護士を使う場合、本当に専門知識を持っているのかどうか事前の調査が必要だ。 
 あるいは、公務員を多く出すエリート大学JNUに入る場合、これまで差別されてきたとされるカーストおよび部族の選抜に優遇制度があることから、「逆差別」の問題が生じていることなども、インドの歴史がもたらした課題の重さを知る情報である。