大澤社会学について

 このコメントを支持したい。貧困をめぐる問題は、いまの日本では恐らく、絶対的貧困相対的貧困の境界線が引きにくいところもあり議論が混乱しかねない。現代における不幸の問題として考えても、個々の主観性に帰するだろうが、この問題をめぐって大澤真幸京都大学教授のかつての論考を、HPに記載したものの再録を通し考えるヒントとしてみたい。
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20101005/1286258267(「『ナショナリズムの由来』を読む」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20101014/1287035181(「ネーションにおける不平等性」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130414/1365911796(「単独性と偶有性」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20110527/1306480707見田宗介「共同性の再構築」)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20121231/1356918843(「代表制民主主義の問題と一票の格差」)
大澤真幸京都大学教授の『不可能性の時代』(岩波新書)は、書き下し二つの章および結と、『世界』(岩波書店)などに掲載された論文に大幅な加筆・修正を行なった四つの章から構成され、「不可能性の時代」と規定される現代について、「時代閉塞の現状」のカルテをまとめ、そこにどんな希望が胚胎しているか、実践可能な処方箋をも提示している。ひたすら科学的であろうとして禁欲的でありすぎたかつての日本社会学を顧みると、大澤社会学形而上学社会学とでもいえようか。日本数理社会学の先駆者の一人であったわが恩師の安田三郎氏は、「ふつうのアタマでも必要な手続きで順を追って理解していけば、あるところまで必ずわかるのが科学だ」と語っていたことを思い出した。大澤社会学は、相当アタマのいい人でないと、はじめから何を言っているのかわからないだろう。マンガも文学も映画も犯罪も、現代社会解読に恰好の典型的社会・文化現象として、まるで金魚掬いの名手のように掬いとり、パフューム(中田ヤスタカ)の音楽のように感情移入せずに解明してしまうところは、日本のスラヴォイ・ジジェクといえようか。
 反現実との関係でその「意味」が与えられる現実とは、意味づけられたコトやモノの秩序であるとし、見田宗介氏の分類を踏まえて、戦後日本は、反現実の「理想」の時代から、同じく「虚構」の時代に移行し、現代は「不可能性」の時代を生きているというのが、時代の認識である。「大阪万博」と「三島由紀夫の自決事件」の1970年が、「理想」→「虚構」の時代的転機の出来事とし、「阪神・淡路大震災」と「地下鉄サリン事件」の1995年が、「虚構」→「不可能性」の時代的転機の出来事であるとして、それぞれの時代の社会学的解明を試みている。
 大澤社会学形而上学)の鍵概念は、周知の「第三者の審級」である。「第三者の審級」の撤退もしくは不在こそが、戦後を貫く本質的問題性であるというのが、この書においても通奏低音なのである。「第三者の審級」とは、「普遍的な真理や正義を知っているはずの理念的な他者」のことであり、「規範の妥当性を保証する、神的、あるいは父的な超越的他者」を意味するものである。
……リスク社会化とは、「本質に関しては不確実だが、実存に関しては確実である」といえるような第三者の審級を喪失することなのである。第三者の審級が、本質においてのみならず、実存に関して空虚化したとき、リスク社会がやってくる。……
 たとえば医療現場での「インフォームド・コンセント」のように、「自由であること」が強制されるところに、リスク社会が成立するのである。「真の自己選択と自己責任」が求められ、不確実な損害=リスクが現われるというわけである。しかしリスク社会にあっては、撤退したはずの「第三者の審級」は、いわば「裏口」から変形を伴いながらも再生している場合が少なくないのだ。たとえば、祭り上げられる「カリスマ」であったり、ネット世界におけるグーグルの「権威」であったりする。なるほど、寺脇研ゆとり教育」推進政策での「現代社会」科などは、「自由におやんなさい」という強制であったことが思い起こされた。
 多文化主義についての分析のところはとくに面白かった。味の素が豚の成分を、マクドナルドが牛脂をそれぞれ製造過程で使用しないことにより、前者がインドネシアイスラム教徒、後者がインドのヒンドゥ教徒に受容された事実をめぐって、
……これぞまさしく、多文化主義的配慮とも言うべきものだが、これらの例が教えてくれるのは、多文化主義グローバル資本主義にきわめて適合的な主張だということだ。ラディカルな左翼に好まれる多文化主義は、資本主義の今日的な発展の関数かもしれないのだ。……
 宗教について、普遍的な真理として教義にコミットしない限りでのみ、多文化主義は、その〈信仰〉を認めるのであり、つまりは信仰の振りをしている限りで寛容であるということなのだ。
 さらには、テレビのショー番組で大笑いを演じてくれる「スタジオのお客様」のおかげで、仕事で疲れた視聴者もどうにか〈盛り上がる〉ことができるように、「信じる振り」の行為は、どこかに「信じている」他者の存在あって成立するから、多文化主義はアイロニカルには、原理主義と相互転換可能な関係にあるということになる。大澤教授のここの知のアクロバットには、スペインのFWフェルナンド・トーレスのみごとなゴールを観たときと同じ感動を覚えた。(2008年8/15記)
◆「東京新聞」2008年7/29,30の「論壇時評」で大澤真幸京都大学教授が、「左翼はなぜ勝てないのか」と題して論評している。若年労働市場における非典型労働者(アルバイト、契約社員等の非正社員)および無業者の過酷な状況に社会的注目が集まり、非典型労働者が増加している現代、その若者の怨念は、雇用者や為政者に向かわず、彼らに同情と〈理解〉を示す左翼の勢力拡大につながらない。それどころか、ネット世界では主流としては、揶揄と嘲笑の対象になっている。なぜだろうかと、大澤氏は問いかける。
 本田由紀氏の分析を紹介して、そもそも非典型労働者が増大する背景には、グローバル化にともなう大規模な産業構造の転換があるとし、先進国における対人サービス職の比重が重くなっていて、繁閑の変動が著しいサービス業では短期的に集中的に労働力を投入できる非典型労働力へのニーズが高まり、また、多品種少量生産においては出し入れが簡単な非典型労働力が都合がよいという、社会構造上の事実がある。
 この事実を認識し資本主義を超克する方途を模索することなくして、ただ弱者に「同情・理解」を示し「応援」することで、客観的には「安全な場所」に居ながら自己自身に陶酔するのみでは、左翼への支持も存在意義も成立しないと、大澤氏は、警告しているのである。大いに納得させられるが、立場によっては、現状是認と思考停止に陥る危うさもあるのである。また〈主体的〉には文学の存在価値についても考えさせられた。安易に「プロレタリア文学」の見直しなどに、突破口を求めてはならないと自戒したいものである。
……今日、フリーターやニートの自尊心を傷つけているのは、彼らが、いつまでも、誰とでも交換可能な小さな部品に過ぎない、という扱いを受けるからである。だが、これは、資本主義的な普遍化の作用のきわめて素直な実現にほかならない。左翼を困難に陥れている究極の原因は、結局、資本主義を上回る実効的な普遍性を提起できないからである。……(2008年8/1記)
不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

ナショナリズムの由来

ナショナリズムの由来

⦅写真(解像度20%)は、東京台東区下町民家の、キョウチクトウ夾竹桃)その2。小川匡夫氏(全日写連)撮影。⦆