ノーベル文学賞を受賞したベケットが、質問を一切しないという条件で引き受けたスウェーデンの TV のインタビュー(https://t.co/Rkomi0kh0h)。何も語らないのは、彼らしいです。 pic.twitter.com/JKOJtjNAdN
— Masayuki Tsuda (@MasayukiTsuda2) 2021年10月18日
吉本隆明の「沈黙の有意味性」を思い起こさせるが、ここではベケット作の『ゴドーを待ちながら』の舞台について記す。


今まで観た中で印象的だったのは、「本質的喜劇」と銘打った小川洋三プロデュース公演(1980年9月、新宿・紀伊國屋ホールにて)、早野寿郎脚本・演出の舞台。漫才コンビ、セントルイスが舞台出演、ウラジミールをセントが、エストラゴンをルイスが演じた(Aプロ。Bプロは別のキャスティング)。この上演プログラムは、錚々たる人物が寄稿していて、その一人髙橋康也は、漫才コンビ抜擢について書いている。演劇史的には、『ゴドーを待ちながら』はギリシア悲劇からイプセンを経てアーサー・ミラーに至る、西欧的人間を支配してきた〈悲劇〉への決定的な否定(ノン)であるとしている。〈悲劇〉成立の前提である、絶対的価値も精神も誇りも自我も、すべてあいまいに崩れ去った時代に、演劇はいかにして生き残れるのかと問う。
では日本ではどうか、演劇はどのように生き残るつもりなのか。いや、そのような問いを自分の胸に擬せられたナイフとして、どれほど自覚しているのか。『ゴドーを待ちながら』を演ずるためには、どうやら、中途半端な自覚よりは、いっそのこと日本的茶番劇の一形態である漫才の、独特な〈無意識〉の芸の方がふさわしいのかもしれない。……(「生き残りの喜劇 喜劇の生き残り」)
プログラム寄稿の山口昌男の『「ゴドー」とイタリア喜劇』⦅『宇宙と孤児』(第三文明社)収録⦆は、イタリア喜劇の源流、広場の演劇コンメーディア・デラルテからの喜劇史的水脈で、『ゴドーを待ちながら』を解釈していて、面白い。
『ゴドー』に話を引き戻して言えば、ピエール・メレーズはセゲール社の『大作家叢書』の「ベケット」の中でウラジミールとエストラゴンはコンメーディア・デラルテの中のザンニみたいなものだと述べている。(同じことはイーディス・カーンも言っているが)。ザンニとは、コンメディーア・デラルテのアルレッキーノとかパンタローネといった、狂言で言えば太郎冠者や大名といった類型的人物が、定型化される以前のドタバタ専門の役柄一般を指す言葉であった。一般とはいえ、阿呆を装い、或る程度定型化したボロを纏い、狂態を演じるという特色はあった。しかしながら、ザンニ役は、特に名前を冠した役ではないから、近代的な意味での「個人的特性(アイデンティティ)」といったものにわずらわされる必要のない役柄であった。だから、今日の日本の漫才役者の方がふつうの意味での「新劇」役者より、ザンニ的な役割に合っているかも知れないと言えそうである。
そして、イタリア喜劇のアルレッキーノとペドリーノの対立的な役柄同様に、漫才でいえばウラジミールが「突っ込み」の側にあり「利口で、抜け目なく、足払いをかけるのがうまい」、他方、エストラゴンは「間抜けで、情動不安定で、物に動じ易く、泣いたり、わめいたり、笑ったりし易い」、つまり「ぼけ」の側である。なるほど。

