モリエール作品観劇の軌跡

 http://www.youtube.com/watch?v=NeHQ1_Gm9bo
 本日は、17世紀フランスの劇作家モリエール(Molière:1622年1/15〜1673年2/17)の命日である。その舞台をそれほど多くは観劇していないが、代表作は国内外の劇団の公演で観ている。記録しておきたい。


(1966年2月、第一生命ホールにて。劇団四季公演、宮島春彦訳、坂井赳演出『タルチェフ』。)

 モリエールや、ラシーヌに対しても、ジロドウ、アヌイに劣らない愛を、この十三年間持ち続けてきた。ラシーヌは、過去に宮島春彦の演出により上演したが、モリエールは、劇団四季にとって最初の舞台である。私は、モリエールの詩を、四季の俳優たちの持っている豊かな感受性の助けを借り、観客の胸のうちに花開かせる務めを、モリエールと、劇団四季十三年の歴史に負っている。……「初演出に思う」坂井赳





(1976年5月、国立劇場にて。コメディ・フランセーズ(COMEDIE-FRANÇAISE)来日公演、アントワーヌ・ブルセイエ演出『ドン・ジュアン』&ジャン=ポール・ルション演出『守銭奴』。)

 私がコメディー・フランセーズに最も熱心に通ったのは1928年と29年のセゾンであった。すでに半世紀も昔の話で、そのときのプログラムが今でもいくつか手元に残っている、萎れた押し花を見るような気持である。しかしあの頃は、まるで学校に出かけるように、「モリエールの家」へ古典劇の勉強に通ったものである。その頃、毎週木曜日に、マチネ・クラシックという古典劇ばかりを上演する催しがあって、その予約会員となった私は、コルネイユモリエールラシーヌの重だった芝居はほとんど見ることができた。
            (略)
 しかしコメディー・フランセーズの出しもので、いつも感心させられるのはモリエールの芝居であった。どれを見ても結構であったが、私はとりわけ「町人貴族」が大好きであった。芝居もむろん面白いが、踊りと音楽がふんだんに入っていることが楽しかった。まことに豪華な芝居で、ああいう出しものは、コメディー・フランセーズの舞台でなければ本式に上演できないのではあるまいか。……「思い出」河盛好蔵



(1978年9・10月、西武劇場にて。文学座公演、鈴木力衛訳、加藤新吉演出『人間ぎらい(ミザントロープ)』)

 ところで今回の『人間ぎらい』の演出家加藤新吉氏は、人も知るヨーロッパ競馬界の権威である。外国まで行ってどうして馬ばかり見るんですか?という愚問を呈すると、立ちどころに「人間より馬の方がずっとたちがいいですよ」という答が返ってきた。……「『人間ぎらい』雑感」利光哲夫




(1979年5月、国立劇場にて。フランス国立民衆劇場(THEATRE NATIONAL POPULAIRE)来日公演、ロジェ・ブランション演出『タルチェフ』。)

 ところで、政治的・歴史的読み直しとか、精神分析的解釈とか書けば、たちまち、芝居は理屈ではないという、抜き難い反ー知性的志向の反論が返ってくるように思う。しかし、現代においてものを造る仕事が、〈技法〉についての鋭い批評的意識をもたねば成立せず、創造行為の根拠そのものについての反省なくしてはあり得ないことは、今更言うまでもあるまい。このような情況において、ブランションにせよストレーレルにせよ、アントワーヌ・ヴィテーズにせよペーター・シュタインにせよ、あるいはこれらの世代より遥かに若いパトリス・シェローのような鬼才にせよ、多かれ少かれブレヒトの影響下に出発した現代の第一線の演劇人たちが、単にその政治意識や歴史感覚といった理屈によって名をなしたのでないことは、言っておかねばならない。彼らに共通するのは
、演劇の〈言語〉、すなわちその多様な表現方法についての極めて豊かでかつ研ぎすまされた感覚なのであり、ブレヒトのなしとげた〈演劇作業〉に対する彼らの敬愛もまた、この点につながっていた。……「ブランションと[古典の読み直し]」渡辺守章




(1980年8月東京・三越劇場にて。劇団俳優座公演、鈴木力衛訳、西木一夫演出『スカパンの悪だくみ』。)
 http://simmel20.hatenablog.com/entry/20130313/1363152905(「アルレッキーノの仮面:2013年3/13 」)