坂東玉三郎の舞台

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 歌舞伎の舞台を除いて、ドストエフスキー原作『白痴』を基にした、アンジェイ・ワイダ演出の『ナスターシャ』と、エウリピデス作、須永朝彦訳・台本、栗山昌良演出の『メディア』の舞台が、魅力的で情念を揺さぶられ記憶に残っている。

『ナスターシャ』については、かつてのブログ記事(「アンジェイ・ワイダ監督追悼」2016年10/10記)から抜粋しておこう。

アンジェイ・ワイダの仕事で個人的に最も魅力的であったのは、その演出の舞台であった。ドストエフスキー原作『白痴』を基にした、『ナスターシャ』(1989年)である。江東区のベニサン・ピットが会場で、ラゴージン(辻萬長)の住居が舞台という設定。その空間は、美術担当のクリスチーナ・ザフワトヴィッチによれば、「演劇の装置ではなく、昔のロシア人の家の大きなサロンを再建すること」にあったとのことである。坂東玉三郎が、ナスターシャとムイシュキン公爵の二役であるところが、この芝居の肝といえた。ポーランドクラクフで上演されたときは、二人の男優、ムイシュキン公爵役とラゴージ役が登場し、ナスターシャはすでに殺害され亡骸となっており、二人の回想の中で語られるのみであったという(マチェイ・カルビンスキ「狂気、愛、死ーアンジェイ・ワイダによる『白痴』の演出をめぐって」『ポロニカ』恒文社NO.3 )。役者の上演ごとの即興性に委ねた演出のクラクフの舞台に対して、東京での上演は、完結した作品となっている。
 ワイダは、日本滞在中に知り合った女形坂東玉三郎を、ナスターシャ役として起用するアイディアを思いついたのである。

……しかしながら、ーー厳密に言えばーー坂東玉三郎はナスターシャ・フィリッポブナを演じたのではなく、ときおり彼女に姿を変えたにすぎず、基本的にはムイシュキン公爵の役割を演じている。まさにこの点に実験の神髄がある。この同じ俳優が同じ芝居の中で男女の二役を演じるのだ。舞台上にはムイシュイン公爵として登場し、芝居の筋のキャンバスとなる通夜をラゴージンとともに始めたのだ。けれども、二人の男が死者の記憶を呼び覚まし、情念が狂気の域まで高まるときにはーー日本の役者の変貌の技によってーームイシュキン公爵は一瞬のうちに、観客の目の前でナスターシャに変貌するのだった。(前掲論文・坂倉千鶴訳)



           (写真:篠山紀信

 坂東玉三郎がメディアを演じた『メディア』は、1983年2月日生劇場にて公演。イアソン=立川光貴、クレオン=勝部演之、守役=内田稔、乳母=南美江、アイゲウス=菅原謙次。仮面製作が遠藤琢郎。公演プログラムに澁澤龍彦が寄稿している。牧羊子も「おどろきと恍惚とーメディア玉三郎丈に」と題して、同誌で書いている。

……これは遠い国の神話である。同時に現代を生きる近くの女たちのドラマでもあろう。仕事と恋のいずれを択ぶか。女は遥かな古代から、身を揉むようにして、この業にいどんできた。女は子を宿し、産むことができるためである。そういえば桜姫も身を落としたが、つまるところはお家再興——今日でなら企業の復興に尽力したわけであったし、わが子を殺(あや)める因果も似ている。

 勘弥、海老蔵、孝夫と演じてきた桜姫東文章玉三郎丈を大切に眺めている一人として、メディア玉三郎は、まさに地の果てまでも、とびつづけよ、ニューヨークでパリで、おどろきと恍惚と陶酔を謳われよ、と希っている。 

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 因みにこちらは、四世鶴屋南北作『桜姫東文章』は、遠い昔、1967年3月国立劇場にて通し狂言で観劇している。桜姫=中村雀右衛門長谷寺の清玄=守田勘弥、釣鐘権助坂東三津五郎で、稚児白菊丸役が坂東玉三郎であった。