『大江健三郎&柄谷行人全対話』(講談社)その2


【「両義性」をめぐって、用語の整理 】
◯vague:not clearly expressed or perceived
ambiguous : not clearly stated or defined → Their position as consultants is ambiguous.
◯ambivalent:〜(about sb/sth)having or showing mixed good and bad feelings about a particular object,person or situation
◯vacillation : ←vacillate:(between sth and sth) to keep changing one's mind;to have first one emotion or opinion and then another repeatedly
       —『OXFORD Advanced Learner's DICTIONARY』

柄谷神経症というのはambivalentなんです。精神分析の治療というのは、それをambiguousにすることだといってもいいと思います。それは葛藤の原因を取り除くことではなくて、たんにそれを知ること、つまり、解決できない状態に自分があることを率直に認められるようになることですね。両義性を肯定できることが「治る」ということなんでしょう。フロイトによれば、人間は、あるいは人間の文化は、神経症的なもので、その条件を除去することはありえない。除去しようとする態度はambivalentです。われわれに可能なのは、そのような条件の両義性を認める態度です。(p.138)

大江:AとBがあるとして、AはBの否定である場合に、Bをすっかり切り離してしまうことは、必ずしもその人間の治療にはならない。むしろAの中に隠れて反対しているBを発掘して、それを和解させてやることが心理学的な治療なんでしょう。
 ところが、ambiguousという場合は、さきにいったとおり価値判断は含まれていなくて、AとBが共存するということだけ意味していると思うのです。
 もともとこの言葉を日本語でうまく訳した人は山口昌男さんで、彼が「文化の両義性」といったとき、それはambiguity of the cultureということでしょう。意味が二つあるということですよ。多義性ともちょっと違う。「多義的」という言葉もよく使われましたが、僕は両義性という言葉がもっとも正しいと思うな。それが二項対立的な構造論の考え方と重なり合っているし、とくに意味があった。二項対立、つまり一つを消去できない両義性ということです。(p.141 )

大江:おもしろいと思うのは、ミラン・クンデラが発見したようにやはり小説は近代の精神のものであって、僕の言葉でいえば、二つのボールの間の猿みたいな形で、かなり総合的なものを実現してきた、表現してきたと思うんです。しかもこの小説という表現を通じて得られる認識は、単純なものではなく、なかなか複雑なものです。
 本当に鋭い哲学者で、しかも、総合的に全世界を把握しようとするような人、例えばスピノザは、表現と認識の間で天才的な仕事を重ねて、多様な仕事を重ねて、総合体をつくり出そうとしてして成果はあやしいけれども、小説家だと、バルザックにしても、ドストエフスキーにしても、確かな総合体をつくっている。かれらの総合体とは何かというと、ambiguousなものを含み込んだ全体です。しかも、それが一人の経験でもありうるものとして表現したわけですね。やはり小説というものは、この近代で有効であったと思うんです。(pp.152~153 )

柄谷:大江さんは小説が終わったという。自分の小説が終わったという言い方をされているんですけれども、ある意味でグローバルにも終わっていると言いたいという気持があると思うんですが。
大江:言う権利も資格もないけれども、自分の考えている小説理論で、終わっている部分があるとは思いますね。(p.168 )