『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台

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 今年は、劇作家エドモン・ロスタン没後100周年(1918年12月2日没)にあたる。5月に日生劇場で、鈴木裕美演出、シラノ=吉田鋼太郎ロクサーヌ黒木瞳ほかのキャスティングで上演されるとのこと。好きな芝居であるが、シラノ役の吉田鋼太郎以外魅力を感じない。観劇のつもりなし。
シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台は、劇場で2回、たしかTV中継(シラノ=江守徹)のを1回観ている。


 1967年1月国立劇場小劇場にて。文学座創立30周年記念公演。ダブルキャスト公演であった。こちらが観劇したのは、シラノ=北村和夫ロクサーヌ小川真由美、クリスチャン=細川俊之。西洋演劇受容の正統であった舞台。
 http://www.bungakuza.com/cyrano06/intro_1.html(「文学座:『シラノ・ド・ベルジュラック』」)


 2006年11月新国立劇場中劇場にて。鈴木忠志構成・演出。演出家自身が、公演パンフレットで語っている。

……感動ではなく、疑問を前提とすること、その疑問の解明の道筋が、私の演出行為だと言ってよい。だから。今回の舞台では、この『シラノ・ド・ベルジュラック』という作品は、どこまでが作家エドモン・ロスタンの体験であり、どこからが想像であるのか、あるいはどれくらいモデルとした実在の人物が演劇的形式の裡で変形されているのか、あれこれと考えて稽古をしているうちに、ロクサーヌとクリスチャンを実在の人物にするのではなく、主人公シラノの幻想として舞台化するのが良いという結論にいたった。そうすれば当然のことながら、この二人の人物と奇妙な三角関係を構成するシラノという人物も、もう一人のシラノという人物の幻想になる。そして、この三角関係を幻想するもう一人のシラノを日本人とするということにしたのである。それがこの舞台の主人公喬三である。そして物語はフランス的、音楽はイタリア的、背景や演技は日本的といった組み合わせによって、舞台化を試みてみた。思えば日本人は明治維新以来、西洋文化に憧れすぎたために自らの居場所を見失い、虚しいミスマッチともいうべき文化活動をつづけてきた。そのミスマッチを、もうそろそろ偉大でかげがえのないミスマッチにして、世界共通の財産にしなければならないというのが、舞台芸術家としての私の仕事でもあると思っている。

 同パンフレット寄稿の、柄谷行人氏の『鈴木忠志と「劇的なるもの」』の次の批評は、これに呼応している。

……鈴木の演劇が海外で普遍的に受けいれられるのは、その素材が普遍的だからではなく、また演出が日本的なものとしてエキゾチックに見えるからでもない。もとより、身体が普遍的であるとか、「日本的なもの」が普遍的なものだということでもない。普遍的なものは、それらのどちらかにあるのではなく、それらの亀裂にある。そして、それは鈴木が初期から一貫して考えてきた問題なのだ。